軽視される史的イエス

エス=キリストからイエスをマイナスするとキリストが空っぽになってしまう。ところが神学にあってはこの点が重視されてきたとは必ずしも言えない。例えばパウロは「私は…十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と記しているが(Ⅰコリント2:2)、これはややもすれば「史的イエス」の軽視とも受け取られかねない。パウロの真意はともかくとして、このような見方が「史的イエス」から目をそらす傾向を助長させてきたのである。