2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

「神の子」という仲介者

イエスは神と人間との間をとりもつ仲介者ではあるが、預言者ではなく(歴史的には預言者の系譜につながるが)、神とは父と子の関係にある。イエスもまた預言者やムハンマドのような仲介者でもよさそうなのに(事実イスラーム教ではイエスは預言者となってい…

普遍と固有

人間的本質の自己超越化した形態が神であり、ゆえに神が人間と関係しているのは当然であり、そこに仲介者の必然的な存在理由がある。これを宗教は普遍と固有の関係で表わしている。ユダヤ教ならヤーウェと預言者たち、イスラーム教ならアッラーとムハンマド…

仲介者としてのイエス=キリスト

言葉において絶対他者として現れる神。そのような神あるいは神々をいただく宗教は多い。ユダヤ教もそのひとつである。イスラーム教もそうである。神というのが言葉による人間的本質の自己超越化した形態であってみれば、最初から神が人間と関係しているのは…

言葉としてのイエス=キリスト

イエス=キリストとはまずは言葉である。といえばそれはキリスト論のひとつ「ロゴス・キリスト論」と同じと言われるかもしれないが、そうではない。ロゴス・キリスト論ではキリストは神の言葉(ロゴス)によって成るとされる。だが神もまた言葉である。言葉…

信仰と思想

イエス=キリストが人間であり神でもあるということをどう理解すればよいのかという問題は「キリスト論論争」として争われた。その内容は省く。(検索に譲る)ここでまず押さえておくべきは、イエスが「ただの人」であればキリスト教という宗教は成り立たず…

父と子

キリスト教はイエスをキリストであると告白する宗教である。すなわちイエスという一個の人間が同時に神であるということである。これをイエス=キリストと称する。もっともイエスには「父なる神」がいて、かれはその息子であるとされる。だから「神の子」と…

言葉において顕れる神 5

私(個)あるいは私たち(共同体)の呼びかけによって神は現れる。言葉が神を現前化=顕現化させるのである。受肉という神学的概念もそこに究極するが、これはもっと後で述べよう。とにかく神は言葉において現れる。言葉なしに神と人間との関係は成り立たな…

言葉において顕れる神 4

聖書によれば神とは「在る者」(出エジプト3:14)である。すなわち神はいっさいの存在の根拠(源泉)である。これは神の定義としてひじょうに洗練されたものである。もちろん言葉によって定義(define)されるかぎり、神は限定されている。しかし私たちはそ…

言葉において顕れる神 3

キリスト教の神がユダヤ教の神と同じなら、「父なる神」はヤーウェと同じことになる。だが「旧約」のヤーウェという神名は固有名であるのに対して、「新約」の神(テオス)は普通名詞である。この違いは小さくない。しかし面白いと思うのは、固有名である「…

言葉において顕れる神 2

言葉において顕れる神とはどのような神であるのか? クリスチャンでも神のイメージははっきりしていない。三位一体という難しい話は後回しにするとして、「父なる神」を想像するとき、ひとはどのような神を想像するのだろうか? たとえばミケランジェロが天…

言葉において顕れる神 1

キリスト教における歴史性・社会性についてはいずれまた述べることにして、神信仰の話に戻ろう。言葉において顕れる神(絶対他者)、それを聖書はつぎのように記している。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によ…

預言者たちの系譜

聖書(ユダヤ教聖書=旧約)にみる反省的視点はとくに預言者たちによって担われている。かれらは共同体と神との間を取り持つ者たちである。共同体が神から離反する傾向にあるとき、預言者は神への復帰を説く。神からの離反とは神に対する罪を意味する。共同…

反省の産物としての聖書

聖書編纂の重要な意味は、イスラエル民族(ユダヤ人)が歴史の第一幕全体を振り返って、その悲劇の理由を自分たちが神から離れた「罪」によるものとしたことにある。この反省的視点から聖書(ユダヤ教聖書=旧約)は編纂された。つまり聖書は民族的反省の産…

イスラエルの歴史

イスラエルの歴史(神と民族との交渉史)は出エジプト(紀元前13世紀)に始まり、カナン(パレスチナ)侵入、ダビデ・ソロモン時代の繁栄と衰退、王国分裂とその後の他国支配、そしてバビロン捕囚(紀元前6世紀)をもって第一幕を閉じる。イスラエル民族…

神が介入する歴史

キリスト教は歴史性・社会性を備えた宗教である。しかしこの性格はユダヤ教から受け継いだものである。ユダヤ教においては神はイスラエル民族共同体(社会)を導き、歴史をつくりだしていく者である。だから歴史といっても、ヘロドトスや司馬遷が描くような…

キリスト教の特殊性

信仰とは祈りに生きることである。祈らない信仰、祈りのない宗教はない。しかしそれならば、ほかの宗教にも言えることであって、とくにキリスト教にかぎるものではない。キリスト教が他と異なる理由は、祈り以外にあると言わなければならない。キリスト教の…

祈り

「私」とは他者である。なぜなら「私」とは言葉であるから。まして「神」ならば他者性はもっと明瞭である。祈りはその神に向かってなされる。祈りに形式はない。祈りたいこと、祈らずにはいられないこと、それを神に向かって発するのが祈りである。自分の成…

神との対話

神との対話と言っても、神の声が直に聞こえるわけではない。それを期待するのが信仰なのでもない。神の実在とは竜や麒麟のような架空に造形されたある形(形象)をいうのではない。神は言葉において在ることはすでに確認したとおりである。(5/24)しかし言…