2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧

二位一体

イエスは神の仲介者すなわち預言者である。預言者とは神の言葉を預かる者、神の言葉を担う者である。神の言葉は仲介者の言葉を介してのみ伝えられる。それ以外に神の言葉はない。預言者が語る言葉が相即的に神の言葉なのである。よってイエス=キリストの言…

神の言葉=仲介者の言葉

言葉=神は切り離すことができない。言葉と神が別々に実体としてあるのではない。神は言葉においてのみ現れる。その言葉は最初人間の身体器官である咽喉を通じて発せられる音声にすぎない。だから神の言葉が人間の言葉によって語られるのは当然である。そこ…

言葉=神

ドーナツにおいて生地に当たるのが人間の歴史と文化であり、穴に当たるのが言葉である。言葉は音声から成る。音声は何ものでもない。無である。その音声(無)から言葉が生まれる。神はその言葉において現れるのである。穴である言葉=神、それがドーナツを…

ドーナツの穴

前の朝ドラ(梅ちゃん先生)でドーナツの穴について語る若い医者がいた。村上春樹もどこかでドーナツの穴について語っている。ともあれ穴は無というあり方で存在している。それはドーナツの生地と相即的に存在しており、それによってドーナツが形成されてい…

神の無について

神が存在するならこの世界をパラダイスにしてくれればよさそうなものである。人間のためにならないとか何とかつべこべ言わずに。つべこべ言うのは実のところ神が存在しないからである。とはいえ単に理屈をこねているのではない。なぜなら神は存在するものと…

言葉と聖霊 1

これから言葉と聖霊について述べたい。しかしその前に少しだけ既述の内容を確認しておこう。神とイエス=キリストは父と子の関係にありながら同一とされる。この点についてはすでに述べた。(7/25,31,8/19,21)もう一度言う。神はイエス=キリストを介するこ…

騙りの来歴 18

キリスト教の最後の砦がアメリカの福音派(それに同調する同系教会)が主張するような原理主義なら、キリスト教は終わりである。だがキリスト教信仰にも普遍性があり得るとすれば、それは素朴さ(愚昧ではない)と知性のなかに息づいていくことになるだろう。

騙りの来歴 17

ボンヘッファーが神無しの世界で神と共に生きる在り方を証ししたことは、神学にとって画期的なことであった。ところがアメリカの福音派は9・11テロのときに、ボンヘッファーの行動を敵の先制攻撃の正当化に利用した。こうなると「騙り」は犯罪となる。キ…

騙りの来歴 16

もう一度確認すれば、神とは言葉である。それは人間の言葉を通して発現される。それゆえ神とは人間的本質の自己超越化したものである。神は言葉の外に対象として実在する存在者ではない。神はその意味では無もしくは無−存在者である。ここを基点としない神学…

騙りの来歴 15

教会においてバルトが誤用・悪用されるのには、教会的な事情が考えられる。信徒にとって神の語りを人間の語りとして認識することは、難しいばかりではなく、受け入れることができないということがあろう。神は「全能なる神」として存在してくれたほうがあり…

騙りの来歴 14

バルトは、神の言葉が人間の言葉で語られることを言明した。これによって(哲学ばかりではなく)神学的にも「騙り」が成り立たないことになった。ところがこれを無視したバルトの誤用・悪用が見られる。バルトの言う神の絶対性だけが取り上げられ、またして…

騙りの来歴 13

実存哲学は再び神と人間の関係を問い直した。religion(9/1)である。パスカルが見直され、キルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェ、ハイデッガー、そしてバルト、ブルトマン、ティリッヒ、そしてボンヘッファーが現れた。

騙りの来歴 12

哲学(人間学)はキリスト教の虚構性を見抜いた。これによって神を騙ることの根拠は取り除かれた。しかしキリスト教がこれで終わったわけではない。パスカルの言う「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の問題、すなわち信仰の問題は依然そこにあった。

騙りの来歴 11

理神論は神学に近代化の装いをほどこした。だが理神論の神は観念的抽象化を免れなかった。ルターが示唆した神信仰の新たな可能性は棚上げされ、神は宇宙原理のようなものとして、神棚に祀られてしまった。ここでもイエス=キリストは葬られてしまったのであ…

騙りの来歴 10

近代は啓蒙思想で幕を開けた。啓蒙とは、キリスト教によって昏くされていた世界に知性の光を当てることである。その結果、神は理性(悟性)の中で捉えられる対象となった。人間的本質の自己超越化である神は、再び人間性の中に戻ったのである。それが理神論…

騙りの来歴 9

ルターが「隠れた神」を取り上げたことは、キリスト教が、神が裸であることを認め始めたことを意味する。ルターは法王の権威を否定した。もちろんルター以前に、すでに神の無−存在を言う人はいた。しかし近代に入ると神が裸であることはいっそう明らかになっ…

騙りの来歴 8

王様(神)が裸(無力)であることを暴露したのは、なるほど人間的自由を求める者たちであった。そこにはコペルニクスやガリレオ、ダーウィンのような科学者、デカルト以降の哲学者たちが含まれる。だがそのような事態に至らせたのは、かれらではなく、神を…

騙りの来歴 7

教会権力による抑圧からの解放は、神の正体を暴露する方向に進んだ。教会の独善と傲慢とがそのような事態を招いたのである。イエスが思い描いた「神の国」は、「神の国」を詐称する者たち、すなわち神を騙る者たちによって歪められてしまったのである。

騙りの来歴 6

教会は権威ある者として振舞った。それを神から授かったものと詐称して。そこに独善と傲慢があった。それが人間的自由を抑圧した。神学もまた哲学(人間学)を「侍女」と見下し、自身が権力のための「下僕」であることには頬かむりしたのである。

騙りの来歴 5

逆説的に聞こえるであろうが、神の絶対的権威はその無力において成り立っている。神とは無力において絶対的な権威をもつ他者のことである。つまり神は裸であることにおいて王様である。ところがこれを飾り立てた王様として詐称したのが昔の神学、すなわち「…

騙りの来歴 4

キリスト教に光と影の矛盾が生じた根本的な理由のひとつとして、神学の致命的な欠陥を挙げなければならない。神学は神が裸の王様であることを(知ってか知らずか)隠していた。裸の王様とは神の無力を言う。人間的権威(権力)にとってこれほど都合の悪い話…