俗流神学者と俗流科学者

小田垣はまず、科学の中立性・客観性を、クーンのパラダイム論を援用して、否定していく。これはすでに常識である。要するに科学は認識の手段であっても、真理を明らかにするようなものではない。もしいまでも科学が真理探究の学だと考えている者がいれば、それは俗流神学者にすぎない。だが科学が真理探究の学問ではないからと言って、神学がそうだと言うことはできない。神学もまた科学と同じように、中立・客観の対象的な神を想定しているかぎり、俗流科学者にすぎない。

宗教と科学

『哲学的神学』の第5章は「宗教と科学」である。これも小田垣にあっては重要な問題である。かれはこの問題を神学の問題として捉える。すなわち史的イエスと信仰のキリストの問題として。そして両者は次元の異なったものであるというような「並存的理解」ではなく、両者の関係を問うている。

止めの一撃

無神論神学において然して重要とも思われない不可逆性・他力性の問題を小田垣が取り上げるのは、それらが神の対象化という錯誤を犯している危険があるからであろう。かれは第4章「キリスト教と仏教」を、止めの一撃のような言葉で締めくくっている。「人間の絶対に対する関係は可逆性しかありえない。そのことの中にこそ不可逆性の真意がある」

即非の場 2

即非」とは、A≠A ∴Aである、というものである。「即」と「即非」の違いは難しいが、小田垣の説明では、即非は「非の面が強い分だけ、不可逆に近い」と言う。しかしそれは不可逆性(目下の論脈では他力性)の強調というより、「即非の場」すなわち「自力―他力の区別を超えた所」での不可逆性を指している。小田垣はそれが信仰というものだと言いたいのだろう。

即非の場 1

一般にキリスト教は他力、仏教は自力だと考えられている。ただ仏教でも浄土教は、他力本願という言葉があるように、他力信仰である。この他力と自力について小田垣は、「どちらを採るかというような単純なものではない」と言い、「他力は自力―他力の区別を超えた所で問題となりうるような他力」だと言う。そして「自力に於ても他力に於ても、問題は信即不信をあらしめる即非の場ということである」としている。

独善からの脱出

小田垣の批判(不可逆論批判)の根本は、神学において一般的な、対象化された神(偶像神)を仏教的無(無相)によって見直すことにある。無においては可逆も不可逆もない。神を無とみるとき、キリスト教は仏教のような他宗教と通底し合えることはすでにみた。(6/20)このことによってキリスト教はようやく自己絶対化(独善)の誤りから脱出する機会を得ることができるのである。

不可逆即可逆なり!

滝澤の理論を批判するなら、事に理を与えるというような「注釈」は不要である。的確に不可逆即可逆なり!と批判すればよい話である。小田垣が言うように、不可逆論は神の対象化に帰結する。それは有神論の立場であって、無−神論としては成り立たないのである。