2012-11-01から1ヶ月間の記事一覧

言葉=聖霊=他者

人間が畏敬する聖、あるいは憧憬する美というものは、どこからもたらされるものだろうか。キリスト教で言えば、それは聖霊によってもたらされる。聖霊すなわち言葉である。言葉の無根拠性にもかかわらず(いや、そのゆえに)言葉はそれを用いる人間に対して…

畏敬と憧憬

一つの宗教が成り立っているのは、それが歴史と文化の中に息づいているからである。逆に言えば、歴史や文化は一つの宗教と深く関わっている。中東・アジアのイスラーム教や仏教、ヨーロッパのキリスト教、さらに限られた地域にはそこの宗教がある。それら一…

宗教は一つ ≠ 一つの宗教

宗教は一つである。だが念のために言えば、一つの宗教がそれを代表することはできない。普遍はそれ自体として独立してあるものではないからである。普遍は固有をもってしか表わせない。それは神が人間(仲介者)をもってしか表現され得ないこととまったく同…

宗教は一つ

宗教とは無なる普遍を志向する固有の文化である。文化はどれも固有である。なかでも宗教文化は歴史とあいまって、地域に生きる人間の生活様式から思考様式までを規定する。ヒンドゥー教の神が普遍であるわけではないように、キリスト教の神も普遍なわけでは…

非合理ゆえにわれ信ず

宗教の根本には言葉による「無なる普遍」がある。ところがこの事実(真実)を、ほかならぬ宗教が認めないのである。言うなれば、宗教は科学が口出しできない強みを持ちながら、それには気づかず、科学が批判する宗教の弱み(非合理性)に執着しているのであ…

科学による神の否定 2

ふつうには神の存在は非合理ゆえに否定される。科学の対象にも数学のゼロとか物理のブラック・ホールのような神秘的世界があるが、それが無なる普遍としての宗教に向かうわけではない。(もし向かえば科学ではなくなって、宗教の領域に踏み込むことになる。…

科学による神の否定 1

神が無(空)であることと、科学的見地から神の存在が否定されることは、厳密に区別しなければならない。しかし一般的には神の存在否定に科学的合理性が用いられる。たしかにふつうの意味で「神は存在する」と言うのを否定するには、それは有効である。だか…

無はある

普遍は無(空)であるが、「無」なる言葉(概念)はある。言葉においては、無は「ない」を意味せず、「ある」を意味する。したがって普遍が無だからといって、それは「ない」のではなく、「ある」。宗教はここに起源をもっている。

祈りの形式

「イエス=キリストの名によって、この祈りを捧げます。」こう言って、信徒は祈りを締めくくる。これがキリスト教の祈りの形式である。信徒は、イエスにではなく、神に祈る。これは、イエスが父なる神に祈ったことを踏まえている。信徒はイエスにならって祈…

父なる神

父(神)と子(イエス)は明らかに別である。にもかかわらず父子一体が成り立つのは、父が子によってのみ現れる(表れる)からである。それが二位一体ということである。(10/31既述)父とは「普遍」の別称である。普遍は無(空)であるが、言葉に生きる人間…

普遍志向

宗教の根源にはもともと普遍志向がある。ユダヤ教の神は偶像であるが、偶像崇拝を禁じたことにおいて普遍を志向していた。カトリックにもそのような志向が働いていた。だが普遍が無であることに無自覚であるかぎり、神の偶像化は避けられなかったのである。

偶像

一つの宗教(民族)にしか属さない神は偶像であって神ではない。たとえばユダヤ教の神(人格神)は偶像であった。カトリックも長い間、神を偶像に貶めていた。両者に欠けていたのは、普遍が無であることの認識であった。

神への固執

普遍=無をめぐって宗教者が語り合っても実りはない。しかし宗教の固有は無としての普遍と相即でなければ独善に陥る。それはもはや固有ではなく固執である。キリスト教が神に固執すれば、それはキリスト教自身を普遍とは無縁な宗教とする。普遍を意味するカ…

普遍には種が無い

宗教が協力して現代の課題に取り組むことはできる。しかし宗教同士が教義を擦り合せることはできない。教義間には共通項がないからである。だから宗教は固有なのである。宗教の普遍性は確かに宗教間における共通項であるが、それは教義の擦り合わせで何とか…

固有と普遍

普遍は固有によって普遍となる。しかし固有を寄せ集めた普遍などというものはあり得ない。だから宗教を統合して普遍宗教を生みだすようなことはできない。それは別に一つの宗教を生みだすだけである。普遍が固有と相即的にあるということは、固有に立たない…

神の普遍性

普遍とは超越的なイデアである。しかしそれはどこかに対象的に実在するのではない。宗教における普遍としての神も同じである。神はそれ自身としては無(空虚)である。いや、「それ自身」というようなものは何もない。だから神は普遍であり得る。

三位一体論

三位一体論はキリスト教に固有の教義である。それはキリスト教の基本的な構えを明確に表わしている。だから「キリスト教は三位一体の神的関係によって成り立っている宗教である」と言ってもよい。三位一体が理解できれば、理論(教義)的にはキリスト教が分…

三位一体

神と子を現わすのは言葉である。言葉としての聖霊がなければ神も子も現われない。しかし言葉はそれとしては無である。よって言葉としての聖霊が神と子に先行するとは言えない。それは神と子に同時的・相即的に関係している。三位一体はそうした関係である、…

言葉と聖霊 3

「はじめに言葉があった」といえば、言葉があたかも独立した実在のような感じを受けるが、正確ではない。言葉に実体がないように(あるのは音声だけである)、聖霊には実体がない。だから聖霊は、三角形の一角を占めるような在り方で、対象的に在るのではな…

言葉と聖霊 2

言葉は人間のものでありながら、人間のものではない。それが人間の営為すべてに関わって、歴史と文化を形成している。言葉は神秘であり、不思議である。昔の人はこれを言霊(ことだま)と呼んだ。「はじめに言葉があった」のである。この言葉こそ、キリスト…

私という他者

言葉に他者性が具わっているということは、私でさえ他者であるということである。だから人は「私」を対象化し、自分と対話することができる。私が自分に問うことができるのは、私が他者だからである。神もまた同じである。神を対象化し、神と対話することは…

言葉の他者性

言葉の発生には人間の咽喉から発せられる音声が関わっている。だが考えてみれば咽喉は自分のものではない。なぜ私に咽喉があるのか説明できる者はいない。また咽喉から発する音声の物理的(身体的)メカニズムは説明できても、それが言葉となることを説明で…