私という他者

言葉に他者性が具わっているということは、私でさえ他者であるということである。だから人は「私」を対象化し、自分と対話することができる。私が自分に問うことができるのは、私が他者だからである。神もまた同じである。神を対象化し、神と対話することは、言葉の当然の成せる業である。