2013-04-01から1ヶ月間の記事一覧

方法論と存在論

「言葉が語る」ということは、一見「上から下へ」に見える。だとすれば「上から下へ」の神学とどう異なるのだろうか。小田垣はそれを方法論と存在論の違いとして説明している。方法論とは、一種の形式主義である。神の言葉を対象的に固定化して騙る。そのよ…

言葉が語る

人間にとって人や物が存在することは、言葉なしにはにはありえない。花も鳥も言葉である。だがhaとnaを組み合わせて、なぜ花という概念が生まれたのか、それを知ることは出来ない。言葉の不思議である。私が言葉を語るのではなく、言葉が私を語るのである。

言葉は存在の家である

言葉のない世界には花も鳥も存在しない。花は自分を花とは思わないし、鳥も自分を鳥とは思わない。花や鳥が存在するには言葉が必要だ。それをハイデッガーは「言葉は存在の家である」と言った。

出来事に還る

「下から上」か「上から下」かという袋小路に入ってしまった神学からの解放は、「出来事」に還ることである。その手掛かりとして小田垣は、まずハイデッガーの言う「言葉」の意義を取り上げている。

「下から上」か「上から下」か

小田垣は「下から上へ」の解釈学について、それが人間の側から出発していることにおいて、神学との相克は避けられないと言う。一方「上から下へ」の解釈学については、神(上から)の啓示と言えども、人間の関わりなしには成り立たず、しかもその関わりは「…

「下から上」と「上から下」と

第2部は第4章「 解釈学と神学 」から始まる。中身は「下から上への解釈学」、「上から下への解釈学」、「出来事としての解釈学」の三つから成る。「下から上へ」とは、人間と神との二元構図(主客構図)における「人間の側から」を意味し、「上から下へ」…

非閉鎖的キリスト論の試み

新しい史的イエスの探求はブルトマン批判を軸に展開した。小田垣はその批判者たちの論点を緻密な考察によって逐一要約・吟味していく。その批判の中心にあるのが「史的イエスと信仰のイエスの間の緊張関係」であるが、批判者たちの試みはいずれも成功してい…

新しい史的イエスの探求

近代神学・弁証法神学の閉鎖性対して非閉鎖的な(開放的とは言われない)神学は、当然史的イエスをめぐるものでなければならない。そこに主観−客観構図を超えるイエス=キリストの出来事性があるからである。第3章の副題が「新しい史的イエスの探求」とある…

弁証法神学批判の要点

弁証法神学の代表者バルト、ティリッヒ、ブルトマン、三者に対する小田垣の批判の要点をまとめておこう。 1 信仰的キリストの偏重による史的イエスの切り捨て。これはイエス=キリストという出来事性の理解における重大な欠落を意味する。 2 人間と神の二…

ブルトマン批判

ブルトマンについて小田垣は、「キリスト論におけるイエスの軽視とキリストへの集中がブルトマン神学の特徴」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)だと指摘する。要するに、ブルトマンの非神話化の方向は、ケーリュグのキリストすなわち信仰的キリストに傾…

ティリッヒ批判

ティリッヒは「信仰上の疑いを復権させた」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)として評価するものの、かれが提唱した「新存在」なるキリストは、バルトと同様に、ナザレのイエスに向き合うものではない。したがって「ティリッヒには地上のイエスに対する…

バルト批判

小田垣の観点から見たバルト批判の根本は、結局「史的批判的研究の余地は全くない」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)という言葉に尽きる。つまりバルトもナザレのイエスを見ていない。その点で、かれの神学には歴史性が欠如している。「史的イエスへの…

弁証法神学

小田垣が閉鎖的キリスト論として立てたもうひとつは弁証法神学である。ここにはバルト、ティリッヒ、ブルトマンといった立役者が並んでいる。神学史上のかれらの意義(功績)は、ともに近代神学の人間中心主義を批判して、神の主権を復活させたところにある。

歴史的関心の欠如

小田垣は、合理主義的神学が人間イエスに注目したことを評価しつつも、それが「合理的な理解」に留まっていることを批判して、「合理主義的ものの考え方に欠けているのは歴史的関心である」(1章1節「合理主義」)と述べている。つまりイエスの歴史性を見て…

人間と神の二元論

「人間が神の視点に立つ」とは、近代主義的な人間中心主義を指すが、これに対して神中心主義を立ても、近代主義的であることに変わりはない。人間中心であれ神中心であれ、いずれも人間と神という二元論のなかで、言い換えれば、主観―客観構図のなかで考えら…

近代神学

小田垣は閉鎖的キリスト論として近代神学と弁証法神学を置く。 まず近代神学は啓蒙主義の影響を受けた神学である。よってその特徴は合理性にある。これは理神論である。小田垣は言う。「イエスを合理的に理解することは、人間が神の視点に立っていることを意…

元も子も無いキリスト論

閉鎖的キリスト論は、「信仰のキリスト」に偏れば、(イエス+キリスト)− イエスとなって、キリストが残るかといえばそうではなく、ゼロすなわちイエスもキリストも無くなってしまうか、反対に「歴史のイエス」に偏って、(イエス+キリスト)−キリストとな…

閉鎖的/非閉鎖的キリスト論

以前私はつぎのような式を記した。(2012.8.15/8.16) (イエス+キリスト)− イエス=ゼロ (イエス+キリスト)− キリスト=ゼロ 小田垣の概念で言えば、イエスは「歴史のイエス」であり、キリストは「信仰のキリスト」である。この両者の整合性の議論が、…

「不信」において「信」がある

物事には表と裏がある、正があれば必ず反があるように。信ずるという「信」には、信じられないという「不信」が含まれる。逆も成り立つ。「不信」には「信」も含まれる。それが「信」というものである。神が絶対確実に存在するなら、「信」という概念は要ら…