2012-01-01から1年間の記事一覧

原始教団で成立した贖罪死観

贖罪死観は原始エルサレム教団において成立したものである。使徒たちは師であるイエスの死を贖罪死として意味づけ理解することによって、宣教を始めたのである。パウロの書簡にはそのことを裏づける記事がある。(Ⅰコリント15:3-5)だがそのパウロでさえイ…

贖罪死観

贖罪死という教義は、ユダヤ教伝来の救済史観に基づいている。ユダヤ教は、自分たちが神から離反したことを罪であると自覚したところに成立した宗教であるが、メシア思想はその一環にあって、キリスト教はそれを継承し、それがイエスにおいて成就したとする…

十字架による贖罪

ナザレ人イエスについての概要はともかく、かれがイエス=キリストとされるに至ったのは、十字架刑による死が決定的な契機となったことは言うまでもない。イエス=キリストとは、十字架上に死んだ人間イエスがキリストであると告白されたことを意味している…

ナザレ人イエス

ナザレ人イエスについての詳細は不明であるとしても、かれがローマ支配下のユダヤに、いやそのユダヤにおいてさえ差別されていた北イスラエルのガリラヤに生を受け、家業の大工として身を立てながら、おそらくは一時期ヨハネ教団にも関係していたであろう求…

神学のリフォーム

聖書の神話性からの解放が、「神学の解体」を招いているとする批判がある。しかしそう言うなら、神話性に固執することは「神学の老朽化」を招いていると言わなければならない。もはやそこに住むことは危険なのである。リフォーム(脱構築)という言い方がで…

神話的呪縛からの解放

イエス=キリストとは、イエスが相即的に神の子であるという信仰(告白)以外のなにものでもない。非神話化はこの事実に即した解釈法である。そこには神話の基層に迫真しようとする意志がある。福音書が真に「福音」であるためには、既成化された神話的呪縛…

道具立ては要らない

イエスが神の子であることに証明は要らない。しかしそれが福音書に記された処女降誕や復活や奇跡を鵜呑みにすることを意味するとすれば、それは巷に氾濫するプチ・カルト的な「信心」と何ら異なるところはない。イエス=キリストとは、処女降誕や復活や奇跡…

過大な聖書主義

福音書のなかのイエスは神格化されている。それはイエスがキリストであることの表現である。だがそれは一つの表現であって、たとえ福音書が重要なテクストだとしても、福音書自体が神格化されてはなるまい。過大な聖書主義(その極みは無謬説)はその点で誤…

知識と信仰

一足のわらじを左右バランスよく履くとは、もちろん知識と信仰との関係を言っている。無なる神は、イエスを介して私たちに現在する。福音書はそれを物語のかたちで記述している。そこに処女降誕や復活や数々の奇跡が書かれている。しかしそれがイエスが神で…

一足わらじ

非神話化と信仰とは異質のものであるが、両者をつなぐのが信仰的実存である。それは二足のわらじを履くというよりも、一足のわらじの右と左をバランスよく履くような感覚である。右と左は別々であるとしても、それを履くのはひとりの人間であり、要はどのよ…

信仰的実存

非神話化とは、「あった」ことの真相を探り、その意味を再解釈する作業である。もちろんそれを学問(解釈学)としてみれば、そこには合理的思考や判断があって、それは信仰とは次元を異にする。しかし合理的思考・判断といえども、そこに解釈者の主体(主観…

無理の封じ込め

福音書(聖書)を文学として捉えるのは悪くないとしても、それは信仰の問題ではない。ならば福音書の記述に文句を言わず従うのが「信仰」なのだろうか。だが「信じる」と言っても、処女降誕や復活というフィクションを「事実」と自分に言い聞かせても、そこ…

アポリアの解決策 

イエス=キリストの人性と神性との関係に折り合いをつけるにはどうすればよいか。クリスチャンが採用する方策としては、福音書(聖書)の記述に従うというもの。その最右翼が「逐語霊感説」だが、福音書の記述を「信じる」というのが一般的であろう。もうひと…

現代神学のアポリア

ブルトマンの「二足わらじ」は現代神学のアポリア(難問)である。非神話化という方法は、それをどれほど推し進めていっても、イエスの人性(人生)を明らかにするだけで、その神性を明らかにするものではなく、いっぽうイエスの人性を無視あるいは軽視して…

二足わらじ

ブルトマンに対する批判に、イエス=キリストの人性と神性とがうまく捉えられていないことが挙げられる。両者の整合性がうまく説明されていないというのである。いわば「二足わらじ」批判である。一足のわらじで人間イエスを、もう一足のわらじで神の子イエ…

ブルトマンのお蔭

平面に対して垂直線が交わるところにイエス=キリストの意味がある。この問題に現代的な示唆を与えたのがブルトマンである。(因みにバルトが教義学に専念できたのはブルトマンのお蔭である。)ブルトマンの研究(非神話化)は、後発の研究者に大きな影響を…

平面的なイエス像

しかしイエス=キリストの両義性にもかかわらず、イエスの人性すなわち人間イエスに偏重して語る人たちは少なくない。もちろん人間イエスには魅力がある。しかしそうなると、話はイエスでなくともよいことになる。人間解放の革命家でも、赤ひげのような医者…

2大B

イエスの人性すなわち人間イエス(史的イエス)の探求に力を注いだのはブルトマンである。いっぽうイエスの神性すなわち神の子イエスの教義的意義を探求したのはバルトである。神学におけるこの2大Bの存在は、福音書のリアリティ―を支えるイエス=キリスト…

イエスのリアリティ―

「事実は小説より奇なり」と言うが、事実よりも小説にリアリティーを感じるというのが人間である。福音書もまた物語つまりフィクションとして描かれている。その肝は、人間イエスが同時に神の子であるというところにある。このイエスの人性と神性は不離一体…

イエスと出会う 2

イエスとの出会いは人さまざまである。だが共通しているのは、聖書がその元になっていることである。聖書、ことに新約の福音書に記されたイエスを通して、人はイエスの人性あるいは神性に触れる。ただ研究(史的イエス研究)によれば、本当はどのような人で…

イエスと出会う 1

信仰者でなくともイエスに関心を持つ人は少なくない。イエスはこの地上世界で生き死んだひとりのユダヤ人でもあったので、この人に共感することができるのである。だが信仰者でも事情は同じである。イエス=キリストは神の子であるが、父なる神は無存在(無…

言葉=聖霊=他者

人間が畏敬する聖、あるいは憧憬する美というものは、どこからもたらされるものだろうか。キリスト教で言えば、それは聖霊によってもたらされる。聖霊すなわち言葉である。言葉の無根拠性にもかかわらず(いや、そのゆえに)言葉はそれを用いる人間に対して…

畏敬と憧憬

一つの宗教が成り立っているのは、それが歴史と文化の中に息づいているからである。逆に言えば、歴史や文化は一つの宗教と深く関わっている。中東・アジアのイスラーム教や仏教、ヨーロッパのキリスト教、さらに限られた地域にはそこの宗教がある。それら一…

宗教は一つ ≠ 一つの宗教

宗教は一つである。だが念のために言えば、一つの宗教がそれを代表することはできない。普遍はそれ自体として独立してあるものではないからである。普遍は固有をもってしか表わせない。それは神が人間(仲介者)をもってしか表現され得ないこととまったく同…

宗教は一つ

宗教とは無なる普遍を志向する固有の文化である。文化はどれも固有である。なかでも宗教文化は歴史とあいまって、地域に生きる人間の生活様式から思考様式までを規定する。ヒンドゥー教の神が普遍であるわけではないように、キリスト教の神も普遍なわけでは…

非合理ゆえにわれ信ず

宗教の根本には言葉による「無なる普遍」がある。ところがこの事実(真実)を、ほかならぬ宗教が認めないのである。言うなれば、宗教は科学が口出しできない強みを持ちながら、それには気づかず、科学が批判する宗教の弱み(非合理性)に執着しているのであ…

科学による神の否定 2

ふつうには神の存在は非合理ゆえに否定される。科学の対象にも数学のゼロとか物理のブラック・ホールのような神秘的世界があるが、それが無なる普遍としての宗教に向かうわけではない。(もし向かえば科学ではなくなって、宗教の領域に踏み込むことになる。…

科学による神の否定 1

神が無(空)であることと、科学的見地から神の存在が否定されることは、厳密に区別しなければならない。しかし一般的には神の存在否定に科学的合理性が用いられる。たしかにふつうの意味で「神は存在する」と言うのを否定するには、それは有効である。だか…

無はある

普遍は無(空)であるが、「無」なる言葉(概念)はある。言葉においては、無は「ない」を意味せず、「ある」を意味する。したがって普遍が無だからといって、それは「ない」のではなく、「ある」。宗教はここに起源をもっている。

祈りの形式

「イエス=キリストの名によって、この祈りを捧げます。」こう言って、信徒は祈りを締めくくる。これがキリスト教の祈りの形式である。信徒は、イエスにではなく、神に祈る。これは、イエスが父なる神に祈ったことを踏まえている。信徒はイエスにならって祈…