2012-01-01から1年間の記事一覧

父なる神

父(神)と子(イエス)は明らかに別である。にもかかわらず父子一体が成り立つのは、父が子によってのみ現れる(表れる)からである。それが二位一体ということである。(10/31既述)父とは「普遍」の別称である。普遍は無(空)であるが、言葉に生きる人間…

普遍志向

宗教の根源にはもともと普遍志向がある。ユダヤ教の神は偶像であるが、偶像崇拝を禁じたことにおいて普遍を志向していた。カトリックにもそのような志向が働いていた。だが普遍が無であることに無自覚であるかぎり、神の偶像化は避けられなかったのである。

偶像

一つの宗教(民族)にしか属さない神は偶像であって神ではない。たとえばユダヤ教の神(人格神)は偶像であった。カトリックも長い間、神を偶像に貶めていた。両者に欠けていたのは、普遍が無であることの認識であった。

神への固執

普遍=無をめぐって宗教者が語り合っても実りはない。しかし宗教の固有は無としての普遍と相即でなければ独善に陥る。それはもはや固有ではなく固執である。キリスト教が神に固執すれば、それはキリスト教自身を普遍とは無縁な宗教とする。普遍を意味するカ…

普遍には種が無い

宗教が協力して現代の課題に取り組むことはできる。しかし宗教同士が教義を擦り合せることはできない。教義間には共通項がないからである。だから宗教は固有なのである。宗教の普遍性は確かに宗教間における共通項であるが、それは教義の擦り合わせで何とか…

固有と普遍

普遍は固有によって普遍となる。しかし固有を寄せ集めた普遍などというものはあり得ない。だから宗教を統合して普遍宗教を生みだすようなことはできない。それは別に一つの宗教を生みだすだけである。普遍が固有と相即的にあるということは、固有に立たない…

神の普遍性

普遍とは超越的なイデアである。しかしそれはどこかに対象的に実在するのではない。宗教における普遍としての神も同じである。神はそれ自身としては無(空虚)である。いや、「それ自身」というようなものは何もない。だから神は普遍であり得る。

三位一体論

三位一体論はキリスト教に固有の教義である。それはキリスト教の基本的な構えを明確に表わしている。だから「キリスト教は三位一体の神的関係によって成り立っている宗教である」と言ってもよい。三位一体が理解できれば、理論(教義)的にはキリスト教が分…

三位一体

神と子を現わすのは言葉である。言葉としての聖霊がなければ神も子も現われない。しかし言葉はそれとしては無である。よって言葉としての聖霊が神と子に先行するとは言えない。それは神と子に同時的・相即的に関係している。三位一体はそうした関係である、…

言葉と聖霊 3

「はじめに言葉があった」といえば、言葉があたかも独立した実在のような感じを受けるが、正確ではない。言葉に実体がないように(あるのは音声だけである)、聖霊には実体がない。だから聖霊は、三角形の一角を占めるような在り方で、対象的に在るのではな…

言葉と聖霊 2

言葉は人間のものでありながら、人間のものではない。それが人間の営為すべてに関わって、歴史と文化を形成している。言葉は神秘であり、不思議である。昔の人はこれを言霊(ことだま)と呼んだ。「はじめに言葉があった」のである。この言葉こそ、キリスト…

私という他者

言葉に他者性が具わっているということは、私でさえ他者であるということである。だから人は「私」を対象化し、自分と対話することができる。私が自分に問うことができるのは、私が他者だからである。神もまた同じである。神を対象化し、神と対話することは…

言葉の他者性

言葉の発生には人間の咽喉から発せられる音声が関わっている。だが考えてみれば咽喉は自分のものではない。なぜ私に咽喉があるのか説明できる者はいない。また咽喉から発する音声の物理的(身体的)メカニズムは説明できても、それが言葉となることを説明で…

二位一体

イエスは神の仲介者すなわち預言者である。預言者とは神の言葉を預かる者、神の言葉を担う者である。神の言葉は仲介者の言葉を介してのみ伝えられる。それ以外に神の言葉はない。預言者が語る言葉が相即的に神の言葉なのである。よってイエス=キリストの言…

神の言葉=仲介者の言葉

言葉=神は切り離すことができない。言葉と神が別々に実体としてあるのではない。神は言葉においてのみ現れる。その言葉は最初人間の身体器官である咽喉を通じて発せられる音声にすぎない。だから神の言葉が人間の言葉によって語られるのは当然である。そこ…

言葉=神

ドーナツにおいて生地に当たるのが人間の歴史と文化であり、穴に当たるのが言葉である。言葉は音声から成る。音声は何ものでもない。無である。その音声(無)から言葉が生まれる。神はその言葉において現れるのである。穴である言葉=神、それがドーナツを…

ドーナツの穴

前の朝ドラ(梅ちゃん先生)でドーナツの穴について語る若い医者がいた。村上春樹もどこかでドーナツの穴について語っている。ともあれ穴は無というあり方で存在している。それはドーナツの生地と相即的に存在しており、それによってドーナツが形成されてい…

神の無について

神が存在するならこの世界をパラダイスにしてくれればよさそうなものである。人間のためにならないとか何とかつべこべ言わずに。つべこべ言うのは実のところ神が存在しないからである。とはいえ単に理屈をこねているのではない。なぜなら神は存在するものと…

言葉と聖霊 1

これから言葉と聖霊について述べたい。しかしその前に少しだけ既述の内容を確認しておこう。神とイエス=キリストは父と子の関係にありながら同一とされる。この点についてはすでに述べた。(7/25,31,8/19,21)もう一度言う。神はイエス=キリストを介するこ…

騙りの来歴 18

キリスト教の最後の砦がアメリカの福音派(それに同調する同系教会)が主張するような原理主義なら、キリスト教は終わりである。だがキリスト教信仰にも普遍性があり得るとすれば、それは素朴さ(愚昧ではない)と知性のなかに息づいていくことになるだろう。

騙りの来歴 17

ボンヘッファーが神無しの世界で神と共に生きる在り方を証ししたことは、神学にとって画期的なことであった。ところがアメリカの福音派は9・11テロのときに、ボンヘッファーの行動を敵の先制攻撃の正当化に利用した。こうなると「騙り」は犯罪となる。キ…

騙りの来歴 16

もう一度確認すれば、神とは言葉である。それは人間の言葉を通して発現される。それゆえ神とは人間的本質の自己超越化したものである。神は言葉の外に対象として実在する存在者ではない。神はその意味では無もしくは無−存在者である。ここを基点としない神学…

騙りの来歴 15

教会においてバルトが誤用・悪用されるのには、教会的な事情が考えられる。信徒にとって神の語りを人間の語りとして認識することは、難しいばかりではなく、受け入れることができないということがあろう。神は「全能なる神」として存在してくれたほうがあり…

騙りの来歴 14

バルトは、神の言葉が人間の言葉で語られることを言明した。これによって(哲学ばかりではなく)神学的にも「騙り」が成り立たないことになった。ところがこれを無視したバルトの誤用・悪用が見られる。バルトの言う神の絶対性だけが取り上げられ、またして…

騙りの来歴 13

実存哲学は再び神と人間の関係を問い直した。religion(9/1)である。パスカルが見直され、キルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェ、ハイデッガー、そしてバルト、ブルトマン、ティリッヒ、そしてボンヘッファーが現れた。

騙りの来歴 12

哲学(人間学)はキリスト教の虚構性を見抜いた。これによって神を騙ることの根拠は取り除かれた。しかしキリスト教がこれで終わったわけではない。パスカルの言う「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の問題、すなわち信仰の問題は依然そこにあった。

騙りの来歴 11

理神論は神学に近代化の装いをほどこした。だが理神論の神は観念的抽象化を免れなかった。ルターが示唆した神信仰の新たな可能性は棚上げされ、神は宇宙原理のようなものとして、神棚に祀られてしまった。ここでもイエス=キリストは葬られてしまったのであ…

騙りの来歴 10

近代は啓蒙思想で幕を開けた。啓蒙とは、キリスト教によって昏くされていた世界に知性の光を当てることである。その結果、神は理性(悟性)の中で捉えられる対象となった。人間的本質の自己超越化である神は、再び人間性の中に戻ったのである。それが理神論…

騙りの来歴 9

ルターが「隠れた神」を取り上げたことは、キリスト教が、神が裸であることを認め始めたことを意味する。ルターは法王の権威を否定した。もちろんルター以前に、すでに神の無−存在を言う人はいた。しかし近代に入ると神が裸であることはいっそう明らかになっ…

騙りの来歴 8

王様(神)が裸(無力)であることを暴露したのは、なるほど人間的自由を求める者たちであった。そこにはコペルニクスやガリレオ、ダーウィンのような科学者、デカルト以降の哲学者たちが含まれる。だがそのような事態に至らせたのは、かれらではなく、神を…