2012-01-01から1年間の記事一覧

騙りの来歴 7

教会権力による抑圧からの解放は、神の正体を暴露する方向に進んだ。教会の独善と傲慢とがそのような事態を招いたのである。イエスが思い描いた「神の国」は、「神の国」を詐称する者たち、すなわち神を騙る者たちによって歪められてしまったのである。

騙りの来歴 6

教会は権威ある者として振舞った。それを神から授かったものと詐称して。そこに独善と傲慢があった。それが人間的自由を抑圧した。神学もまた哲学(人間学)を「侍女」と見下し、自身が権力のための「下僕」であることには頬かむりしたのである。

騙りの来歴 5

逆説的に聞こえるであろうが、神の絶対的権威はその無力において成り立っている。神とは無力において絶対的な権威をもつ他者のことである。つまり神は裸であることにおいて王様である。ところがこれを飾り立てた王様として詐称したのが昔の神学、すなわち「…

騙りの来歴 4

キリスト教に光と影の矛盾が生じた根本的な理由のひとつとして、神学の致命的な欠陥を挙げなければならない。神学は神が裸の王様であることを(知ってか知らずか)隠していた。裸の王様とは神の無力を言う。人間的権威(権力)にとってこれほど都合の悪い話…

騙りの来歴 3

絶大な権威(権力)をもつに至ったキリスト教は、神の絶対的権威にもかかわらず、その不可侵の権威を人間に、すなわちを法王や世俗の王に賦与した。神の権威は引きずり降ろされた。それはあまりに人間的な仕業であった。そこでは神の権威と人間の(見かけの…

騙りの来歴 2

教会は共同幻想の揺りかごに揺られてすくすくと成長した。神を思う信仰は美しい音楽や美術を生み出した。キリスト教がそれだけであったらどんなによかったことだろう。だが歴史の試練のなかで鍛え上げられてきたキリスト教は、その権威(権力)を絶対的な高…

騙りの来歴 1

キリスト教はこれまで神を騙ってきた。(すべてがそうだとは言わないが)それでも共同幻想として多くの信者に支持されてきたのは、信者たちが、神学的な難しい理屈はともかく、健全な神信仰をもっていたからである。そのときすでに神は裸の王様であったが(8…

愚昧な信仰

素朴な信仰は必ずしも知性を必要とはしない。しかしキリスト教にあっては、神を騙る者たちによって、信仰がコントロールされるということがある。そのとき素朴さは愚昧と化す。教会がみなそうだと言うのではない。しかし一人の牧師によって、信徒の素朴な信…

騙る狂信

教会が依然として神を騙っているとすれば、それは狂信というものである。もしそれが教会の現状なら、キリスト教はすでに終わっていると言うよりほかない。知性ある者には、もはや教会の現状に希望を見出すことはできない。知性に見限られた教会は紐の切れた…

あまりに人間的な

神を騙る者こそ人間的である。かれらは神が「人間的」なものであることに反発するが、自分が神のことではなく、人間のことしか語っていないことに気づいていない。逆に神が「人間的」な概念であることを見極めることは、神の絶対的な他者性を認めることであ…

悪貨が良貨を駆逐する

神の言葉が人間の語り(言葉)の中で示される(中でしか示されない)ということは、それを語る人間には神から与えられるような権威はない(本来的には語る資格もない)ということを意味する。そこを押さえないと逆に、悪貨が良貨を駆逐するように、人間の言…

語り/騙りの分岐点

福音主義に立つバルトが同系の福音派(原理主義)から嫌われるのは、「赤い牧師」と言われたかれの履歴もさりながら、根本的には神の言葉を「人間の語り」として限定したところにある。しかしこれこそ神の語り/騙りを分かつ決定的な分岐点である。

神の言葉は人間的な語りである

神が「人間的」なものであるという自覚があれば、語る/騙るの区別をつけるのは難しいことではない。カール・バルトは、神が「人間的」なものであるとは言っていないが、かれが神の言葉を「人間的な語り」として限定するとき、語る/騙るの区別をつけている…

神を騙る理由

神とは人間的本質が自己超越化したものである。この点については何度も述べた。ここでは人間が神を騙りたがる理由の前提として挙げることができる。しかし、だから人間は神を騙りたがるのだというのではない。神が人間的な本質に根ざしている以上、神の言葉…

なぜ人間は神を騙りたがるのか

キリスト教やイスラーム教が聖戦を唱えて戦争を主導・支援するような宗教なら、もう要らない。現代および将来において災いだからである。それは宗教の健全性をそこなっている。だが災いの宗教としてキリスト教やイスラーム教がのさばり続けるのは、クリスチ…

神を騙る歴史

悲しいことに神を騙る独善と傲慢はキリスト教の歴史のなかで大きな負債となっている。神を騙るとは神の権威が自分たち(人間)にあると思いこむことである。しかし神を信ずることは神から権威を授かることではない。その意味で王権神授説もカトリックの法王…

神を騙る者たち 2

神を騙るもう一つの例を挙げよう。キリスト教には「罪」に対して「救い」の概念がある。これには信仰義認と行為義認といった問題があるが、それはさておき、クリスチャンのなかには自分たちは「救われた者」であり、クリスチャンでない人たちはいまだ「救わ…

神を騙る者たち 1

神を騙る一例を挙げよう。キリスト教信仰にとって中心的な命題として「罪」という概念がある。恨み・羨み・妬み・謗り……これらが罪であることは当然だが、キリスト教でいう「罪」とはずばり神を信じないことである。しかしこれは信仰者自身が自己の信仰/不…

虎の威を借る狐

神について考える(思う)ことは、エゴである自己を相対化するということである。人間が自己絶対化することにブレーキをかけることである。だが神を騙る者は、ブレーキどころか、神をアクセルとして用いる。「虎の威を借る狐」である。語り/騙り、それはど…

神を騙る

文化のなかに根付いている風習としての信仰は、自然に生える植物のようなもので、なかには毒をもったものや棘のあるものもあるが、概して自然なものである。これに対してキリスト教のような宗教は、神学を厳格に吟味する必要がある。その場合の必須条件は、…

講釈師、見てきたような嘘をつき

神について語るということは、人間が言葉によって神について語るということである。たとえば「神は愛である」というのは、神は愛であると人間が語ることである。本当は人間は神の考えを知ることはできない。よって神の考えを人間が語ることはできない。その…

イマジン

ジョン・レノンが世界平和への願いを託して歌った「イマジン」、そのなかでかれは天国も地獄もない……宗教もない世界を想像している。たしかに宗教が人間を疎外してきた歴史というのは拭い去ることはできない。「宗教なんてないんだ」というメッセージにはキ…

原理主義の闇

宗教の闇ということでとくに懸念されるのはアメリカの保守的福音派にみられるような原理主義である。かれらの言う逐語霊感説も聖書の無謬説も明らかに誤りである。だがかれらはそれをものともせず虚勢を張りつづける。科学と結託して、かれらは巨大な神殿を…

闇への回帰

シモーヌ・ヴェーユはマルクスの宗教アヘン論に対して「革命こそ民衆のアヘンです、宗教ではありません」と言った。この逆説はおもしろい。しかしそれが宗教の闇を温存させるだけなら元も子もない。神との健全な関係を結び直すこと(religion)が宗教に求め…

宗教の落とし穴

ある意味で現代は宗教の時代である。不安な時代に宗教が流行る。だがそこに宗教の落とし穴がある。カルトまがいの新興宗教、畏怖ではなく恐怖を植え付ける心霊宗教など、それらは意識の深層にある混沌としたもの(カオス)、それ自体は創造的なエネルギーを…

Religion

前回、現実的な諸問題の解決を考えることが目的なら神学など余計な迂回だと述べた。だがこれは正確ではない。いま宗教というものが改めて見直されるときであることは信仰者でなくとも考えてよい。宗教とはre-lig-ionすなわち「再び神と切り結ぶこと」である…

解放の神学

歴史のイエスを語ることは「解放の神学」を語ることだろうか。「解放の神学」は評価できる。だが私は「解放の神学」を語っているつもりはない。まず歴史的・社会的・政治的な現実があって、その神学的な解決を求めているわけではないからである。(「解放の…

自由の落とし穴

歴史のイエスが人間の自由の源泉あるいは原型であることを述べてきた。だが自由にも落とし穴があることは肝に銘じておかなければならない。自由の前に立ちはだかる宗教の壁を打ち破った科学が、今日では自由を脅かしている。宗教の代わりに科学が「神殿」と…

自由への讃歌

自由の原型はイエスにある、とはいえイエスにも原型がある。それはユダヤ教の預言者たちによって受け継がれてきたもの、すなわちモーセとかれが率いたエジプト脱出の物語(歴史)である。黒人霊歌にモーセの出エジプトを歌ったものがあるが(行けモーセ)、…

自由の原型イエス

西洋の歴史ひいてはその影響を受けた非西洋の歴史においても、イエスは自由の原型となってきたのではないだろうか。おそらく自由のかたちはみな史的イエスのヴァリエーションなのである。イエスの処刑は敗北であるが、復活はそれを勝利に変えている。負ける…