解放の神学

歴史のイエスを語ることは「解放の神学」を語ることだろうか。「解放の神学」は評価できる。だが私は「解放の神学」を語っているつもりはない。まず歴史的・社会的・政治的な現実があって、その神学的な解決を求めているわけではないからである。(「解放の神学」も同じだろうが)もしそうなら、神学など余計な迂回である。だが信仰者である私は(不信仰者でもあるが)、否応なくイエス=キリストと向き合っており、イエス=キリスト論を批判する中で、史的イエスの重要性を考えずにはおかないのである。