2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧

不可逆の接触

「原事実」を神と人間との「第一義の接触」とすれば、これに基づいて現成する本来的な人間実存が「第二義の接触」だという。滝澤はこの二つの接触の関係は不可逆であるとしている。これに対して小田垣は「滝澤の『原事実』は無であるべきである」と言い、無…

原事実

さて「キリスト教と仏教」に戻ろう。小田垣はここで可逆/不可逆、自力/他力の問題を追究している。まず前者の問題は滝澤克己の「原事実」をめぐる批判として論究されている。「原事実」とは神学的に分節された人間実存の原点を指している。それは「神われら…

そこが混同され易い

多様な宗教のそれぞれが絶対なる無(一)に発している。だから絶対的な宗教というものはない。宗教はいずれもその固有の具体性でもって普遍なる絶対無を表現しているのであって、それ自身が絶対であるわけではない。そこが混同され易いのである。自らを普遍…

宗教の「一」性

私は以前、宗教は一つであると述べた。(2012.11.25)なぜなら宗教の根底にあるのは、いずれも無だからである。だがそれを一つの宗教が代表することはできないとも述べた。(11.26)宗教とは根源的無(絶対無)にそれぞれが言葉を与えることによって、これを…

垣根を越える

『哲学的神学』の第4章は「キリスト教と仏教」である。小田垣はキリスト教と仏教をつぎのように評している。「バルト神学以降、われわれは神を主観−客観構図における対象として、つまり存在者として理解することはできない。そしてキリスト教と仏教とが通底…

一とキリストとの関係

私は小田垣の言う「一」を否定するものではない。ただ「一」とキリストとの関係が不明瞭であることを指摘しているのである。小田垣によれば、「一」とは自己と不可分なもの、かつ無として有るものであった。私の理解では、それは超越即内在/内在即超越とい…

一とキリスト

小田垣は「一」なる世界との関連で、それがなおキリスト教と呼び得るかと自問し、つぎのように答えている。「イエスが一人の人間として、身を以って指示しようとしたものを、われわれがたまたま、そして必然的に、イエスとかかわることによって理解し、そし…

無の正体

小田垣の説明から受ける持って回ったような印象は、たとえばつぎのような文章に見られる。「神や絶対は完全であるから理由を持たない。……しかし理由を持たないということも一つの理由である。したがって本当に理由を持たないことは、理由はないという我々の…

核を欠く

『哲学的神学』における最も理論的な章である第3章、その内容をめぐって考えてきた。とくに「一」という概念は無として有る神を意味した。そしてそれが「自己と不可分」であることも確認した。だが率直に言って分かり難い。なぜ「無い」ものが「有る」のか…

「一」とは何か

小田垣は「『一』と自己は不可分である」として、「自己を離れて『一』が何処かに対置された時、『一』は理念に転落する」と言う。(第3章)つまり「一」は、実体のようなものとして対象化されるものではなく、直接自己に根拠を置いている。もちろん根拠と…

 一

「一」は、神と人間との「関係」や「間」において想定される主客二元構図を解消する。なるほど神と人間を想定するかぎり二元構図は残像する。しかしそれが「一」として概念されるなら、神も人間も、まずはその根源的な「一」に属するものとなる。

関係・間

神学における「関係」とは神と人間との関係である。たとえばこれを糸電話の一方の端と他方の端のような関係と捉えれば、主客二元構図になる。これを改めて、つながっている糸に視点を置きかえ、「関係」を「間」と言いかえることはできる。だがそれによって…

無意味という意味

十字架上に死んだイエスを見て「まことにこの人は神の子だった」と言ったローマ人の言葉は、信仰における否定的契機の意味を正当にも言い表わしたものとみることができる。つまりそれは無意味を表わしている。(だからこの言葉は皮肉とも受け取ることができ…

十字架の意味

信仰における不信仰という否定的契機は、十字架そのものの意味である。断末魔のイエスに投げつけられた「十字架から降りて見せたら信じてやる」という悪態は、私たちの心の中にある不信と同質のものである。十字架を贖罪の意味で語るのは、教団的(共同体的…

信仰の間

信仰は不信仰を含み、不信仰は信仰を含んでいる。それが信仰である。小田垣が「間」というのは、信仰と不信仰の相即的な関係のことである。「信と不信、義と罪の『間』、その二重性にこそ信仰はある(中略)『間』性は人間イエスが同時に神の子であるという…

信仰の理

信仰は不信仰と相対してあるものである。ふつう信仰に決断が必要とされるのは、決断によって不信仰を振り払うためである。だが事情がそのようなものであるなら、信仰には不信仰も含まれていると見なければならない。不信仰のない信仰というものはない。それ…

神の絶対性のパラドックス

前回記した小田垣の言葉のなかに「理としては正しくとも、事としてはその神は絶対他者ではない」というのがあった。それはつまり、神の絶対性という理屈(一般)は一応成り立っても、それが実際に現れるのは具体的な出来事(特殊)を通して以外にない、とい…