2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧

厳粛な事実

神を信じたくても信じられないのは、信仰的に弱いからではない。神の救済を裏切るような悲惨(戦争、ホローコスト、大災害、飢餓)が余りに多すぎるからでもない。神は存在しない、神は死んだ、という厳粛な事実があるからである。

信仰には信じられないことも含まれている

小田切は第1章の初めで、「信仰には本来、信じているということと同時に、信じられないということも含まれている」と述べている。これは今日神学を学ぶ者が抱いている率直な動機だろう。だが率直であるだけではなく、重要な動機でもある。

『解釈学的神学』の構成

『解釈学的神学』の構成はつぎのとおり。 第1部 神学の閉鎖性と非閉鎖性 第1章 近代神学の閉鎖性 第2章 弁証法神学の閉鎖性 第3章 非閉鎖的キリスト理解の試み 第2部 解釈学的神学 第4章 解釈学と神学 第5章 解釈学的キリスト論 第6章 解釈学的神学…

主客構図の超克

対象化された神を客観、対象化された人間を主観とみるならば、その対象化以前の状態とは、主客未分の状態である。「主観―客観構図を超克した仕方で、神と人間を理解しようではないか」(序説)ということである。

出来事とは何か 5

出来事において神が啓示されるということは、神学と哲学の区別がなくなることだ、と小田垣は言う。その意味は、対象化された神や人間という前提がなくなるということである。対象化された神や人間から出発するのが形而上学的とすれば、出来事から出発する「…

出来事とは何か 4

神は出来事のなかで啓示される。いや出来事自体が啓示である。「出来事の中でのみ神は絶対他者であり得、出来事を離れれば神は『人間の神』となる他はない」(序説)。

出来事とは何か 3

神の啓示という出来事は、抽象的な概念ではない。「出来事」という言い方が、すでに具体的であることを示している。つまり出来事は聖書のなかで語られている内容、すなわちナザレ人イエスの行状あるいは言動である。

出来事とは何か 2

小田垣は、「私が解釈学的神学と言う場合、それは神が開示あるいは啓示される出来事から出発する神学ということを意味している」(序説)と言う。こういう場合の「出来事」は、私的実存だけではなく、神の啓示という意味をもっている。

出来事とは何か 1

出来事とは何か。小田垣はとくに説明していないが、「自身の信仰の出来事」という言い方をしている。それは神と出会うことを意味していよう。その意味で出来事は実存的である。しかしそれを「下からの解釈学」というようには捉えないで、そこに(そこにだけ…

出来事から出発する

小田垣は解釈主体の立場が二極に分れる以前、すなわち「上から」と「下から」との二極に分かれる手前を考える。それをかれは「出来事から出発する」(序説)と言っている。

神と人間との対象化

解釈主体の二つの極において、神から人間に向かう立場が「上からの解釈学」であり、人間から神に向かう立場が「下からの解釈学」である。だが両者には共通項がある。ともに神と人間とを対象化していることである。

二つの極

解釈する主体の立ち位置は、神の啓示を中心とするか、それとも人間の理性を中心とするのかによって「二つの極」に分れる。前者が弁証法神学の立場、後者は近代神学の立場である。

解釈学的神学とは何か

そもそも「解釈学的神学」とは何か。神学という以上、それは聖書の解釈(釈義)だが、小田垣が扱うのは釈義ではなく、解釈する主体である。たしかにテクストを解釈するには、それを解釈する主体の問題が解決されていなければならない。主体の立ち位置、そこ…

東日本大震災に寄せて

東日本大震災から2年。宗教方面からの見方として神罰論もあるし、呪詛論(神も仏もない!)もある。だが神認識において、どちらも誤まっている。賞罰を与えるような神とか窮地を救うスーパーマンのような神など、最初から存在しないのである。「神の死」後…

神の死は神を神たらしめることからの必然

小田垣雅也の神学は、世代交代期に、「神の死」後の神学として開始された。『解釈学的神学』はその記念碑的な第一歩である。かれはその序説において「神の死は、神を神たらしめることからの必然である」と言い切っている。

再出発する神学

現代神学のもうひとつの方向は、神の死を直視し、「死後」から再出発する神学である。これはもはや自分を誤魔化すことのできない者たちの、正直な神学である。知性を殺さない神学である。

神学の死

現代神学の方向は二つ。ひとつは「神の死」を認めず、旧来の神学に固執すること。この方向はさらに聖書の無謬を言い張る原理主義あるいはカルト的神秘主義に向かった。しかしこれは神の死のみならず、神学の死をも意味しなければならない。

知性の判断停止

内向の世代はたしかに内面に向かった。しかしその底にニヒリズムしか見出せなかった。神学の世界でも、自分を誤魔化さないことには、もはや神を受け容れることはできなかった。信仰を守るには、知性の判断停止よりほかに知恵がなかったのである。だがそうで…

神学の世代交代

神学もまた戦前・戦後に活躍したティリッヒが65年に、バルトも68年に没した。そしてブルトマンも76年に没する。つまり神学の世代交代の時期であった。それまで密かにささやかれていた「神の死の神学」が、昂然と語られる時代に差しかかっていたのである。

1975年

小田垣雅也の紹介については、私がウキペディアに投稿した記事を参照。(「著作権侵害が指摘され、現在審議中」とあるのは、はなはだ心外だが) さて、小田垣の神学は1975年の『解釈学的神学』に始まる。1975年と言えば、オイル・ショックの煽りで高度経済成…

閑話休題

これまで神学用語で言うところの「神論」「キリスト論」をめぐって述べてきた。ほかに「教会論」についても考えてみたいが、その前に閑話休題して、私が注目する神学者のひとり小田垣雅也について、しばらく述べてみたい。

敗北者イエスがキリストである

革命家イエスを再現することは困難である。だが手立てとしては、ヨハネとの関係の見直し、政治的過激派集団(もちろん宗教性も含む)の可能性、さらに受難における革命家イエスの敗北(ヨハネと重なる)の有様、そのような経過を追っていけば、革命家の肖像…

マルコの告発

私はマルコが政治性・社会性において受難物語を採り入れたと考える。たしかにマルコの描くイエス像も革命家的なものではない。が、あとにつづく福音書がイエスの死から、その政治的革命性を脱色させていったのに比べれば、最初の福音書であるマルコには、政…