2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

追加された受難物語

マルコは初め13章までだったと言われる。14章以下の受難物語は、マルコ以前にすでにある程度まとまった形で存在したらしい。それをマルコ自身が14章以下に追加したようだが、その理由は、受難物語がイエス抹殺の経過を割とリアルに描き出していたから…

新たなキリスト論の展開

ヨハネとイエスの関係をキリストとその告知者という関係ではなく、記述の背後にある子弟の共同関係として捉え直してみれば、そこに両者が共同して闘った政治的・社会的な状況が浮かび上がってくることだろう。それは取りも直さず、新たなイエス像、新たなキ…

恣意的な意味づけ

バプテスマのヨハネがいかに重要な存在であるかということは、福音書すべてがその初めにヨハネを紹介していることからも分かる。ルカにいたってはイエスと並べて出生まで描いている。だがどれもマルコが記した「その方の履物のひもを解く値打もない」という…

マルコによるヨハネ・ユダ像の定着

マルコの独創は特筆に値する。が、そのマルコにして、バプテスマのヨハネはイエスの格下として位置づけられ、彼の処刑もサロメ(ヘロディアの娘とある)の「おねだり」ということで始末されている。そして後半を占める受難物語において、ユダは型どおりの裏…

マルコの偉さ

新約27書の中で執筆年代が最も早いのはパウロの真正書簡だが、マルコもほぼ同時期に書かれている。それにしてもパウロの書簡に較べてさえ、マルコの福音書なる文学形式は独創的である。マタイもルカも、マルコなしにはなかったことを思えば、マルコの偉さ…

浮かび上がる政治性

書くという行為はあるものを表わすと同時にあるものを隠すという行為でもある。福音書はイエスの政治性を隠している。だが隠しているということは、その本体は潜在しているということである。そう思って読んでみると、随所に隠された政治性が浮かび上がって…

マルコの反発

マルコ福音書はエルサレム教団に対する批判が強いと言われる。その理由は、ヘブル勢力と新参のギリシア勢力(ヘレニスト)の派閥争いということがあるかもしれないが、主にイエスをキリスト化する教団のケリュグマ主義、あるいはイエスの死を贖罪死に特化し…

エルサレム教団の態度

マルコ福音書が書かれる以前(70年以前)、まずペテロらのエルサレム教団はどうだったのか。イエスがヨハネの衣鉢を継いで体制と闘ったように、エルサレム教団がイエスの革命的精神を継承してユダヤの神殿体制と闘ったとしたら、同じように弾圧されてしまっ…

消去か隠蔽か

福音書はイエスを宗教的メシアとして死なせ、ユダを革命家イエスの身代わりとして葬った。二人の死は真逆ながら、いやそれゆえに一対のものである。だがなぜそのようにして革命家イエスの跡を消去あるいは隠蔽したのか。教団に政治と宗教とを分ける積極的な…

イエスの欠片

ユダとはイエスの政治的ラディカリズムを負ったキャラクターである。したがってユダを探れば、イエスの政治性に辿り着くことができよう。だが福音書はそれを消去もしくは隠蔽している。いやイエスの政治性を消去・隠蔽するためにユダが造形されたと言ったほ…

ユダ像の貧弱な理由

ユダの人物像が造形的に貧弱であるのは二つ理由がある。一つは架空性である。ユダは内通者の密告という事実から仮構されたキャラクターであろう。(モデルはいたかも知れないが)だからその役割さえ与えられれば、人物像まで造形するには及ばないのである。…

彫りの浅い人物像

内通者が本当に「弟子のユダ」であったかどうかは不明だが、福音書はかれにその役を負わせている。しかしかれは逮捕劇の重要人物でありながら、それ以外には哀れな末路のほかに何も述べられていない。その意味では人物像の彫りが浅いのである。これが小説な…