2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧

無いことにおいて有る神

無−存在である神、すなわち「無いことにおいて有る神」は、それ自身としては現れようがない。絶対他者なる神と言えども、そのように表現するのは人間である以上、絶対ではあり得ない。神無くして人間は生きられないというなら、神もまた人間無くして存在し得…

『哲学的神学』の構成

小田垣雅也の第2の主著『哲学的神学』は1983年に上梓された。 その構成はつぎのとおり。 第1章 神学と哲学 第2章 現象学、解釈学、神学 第3章 「関係」「間」「一」 ― 哲学的神学の神理解 ― 第4章 キリスト教と仏教 第5章 宗教と科学 第6章 神学…

哲学的神学への移行

小田垣の『解釈学的神学』の副題は「哲学的神学への試み」である。かれは序説においてすでに「解釈学的神学が意図していることは一つの哲学的神学の建設である」と記している。古来神学と哲学は、神と人間との関係として相対的に捉えられて来た。中世にあっ…

無-神論

小田垣は神理解として三点挙げている。(第6章「解釈学的神学と神」) 1 神はイエスの言葉を通しての神である。 2 神は存在者としては(対象的に)存在しない。3 神は無である。ふつう言われている無神論はただの唯物論である。だが無-神論は、あくまでも…

神なき思考

これまで見てきたように、小田垣にあって、神は対象的な存在ではない。そのような神は偶像にすぎない。では何をして神と呼ぶか。第6章(解釈学的神学と神)はこの問題が扱われている。その中で彼は、ハイデッガーに拠りながら、「神なき思考の方が、神をま…

ケーリュグマとは何か

史的イエスとケーリュグマのキリストの統一、それが解釈学的キリスト論である、と小田垣は言う。(第5章「解釈学的キリスト論」)だがこうも言う ― ケーリュグマとは何か、それはイエスの言葉である、と。さらにイエスの言葉を特殊な対象として客観的に主張…

イエス=キリストの意味

史的イエスとケーリュグマとの関係とは要するにイエスとキリストとの関係である。両者は矛盾対立する。そこに上と下との矛盾対立が生まれる理由がある。だが上でも下でもない第三の道においては、イエスかキリストかという対立はもはやない。イエスがキリス…

ケーリュグマの無効

小田垣は史的イエスの探究のみではケーリュグマを超えることはできないと言う。(第5章「解釈学的キリスト論」)だがここにも問題がある。ケーリュグマそのものが批判されていないことである。ケーリュグマを立ててしまえば、それは上と下との二元関係に復…

存在の呼び声に気づく

小田垣は記している ― 言葉は、存在の呼び声にわれわれが応答するか否かの決断を要求している、と。小田垣が「神」ではなく「存在」と記したのは正確である。だが「決断」は不正確である。神ではなく、存在の呼び声に応答するのに決断は要らないからである。…

「上から」の残響

小田垣は記している ― 史的イエスとケーリュグマのキリストの関係づけは、言語的にのみありうるのであり、言葉の出来事の中で達成される、と。(第5章「解釈学的キリスト論」)砕いて言えば、「上から」でも「下から」でもない第三の道は、イエスの言葉にお…

ケーリュグマを超えようとする試み

小田垣は「新しい史的イエスの探求は、ケーリュグマを超えようとする試みであった」(第5章「解釈学的キリスト論」)と記している。それは、教団的に公式化された教義であるケーリュグマの枠を取り外し、イエスの本来的な言葉に直接到達しようとすることで…

非神話化の意味

「上から」でも「下から」でもない第三の道においてイエスの言葉に聴く― それは瞑想する、というようなことではない。まず「上から」ではないということは、イエスの言葉を神の言葉としては聞かないということである。もちろん私が手にしている聖書にはすで…

第三の道

そもそも「上から」と「下から」の解釈の違いが生じたのは、歴史的なものであった。初めは「上から」であったものが、近代になって「下から」になり、さらに「上から」か「下から」かという競合状態になったのである。新しい神学が歩むべき道は、「上から」…

自己偶像化

キリストを主客構図のなかで対象化すれば、そのキリストは偶像(アイドル)である。偶像崇拝とは、自己が無いようで、実は強固に自己を確保する手段である。たとえば権力は必ず偶像をもって民衆支配の手段とする。その最たるものは自己を偶像化することであ…

偶像崇拝の起源

信仰者はひょっとしてこう思うかもしれない ― 神は絶対者なのだから「上から」が当然である。それが受け容れられなければ信仰ではない。これは一面の真理を含んでいる。信仰には神を受け容れるということ(気づき)が伴うからである。しかしそこではキリスト…

厳密な区別

言葉が語る、その言葉とは、出来事において語られたイエスの言葉以外にない。だが信仰者の中にはこれまでもイエスの言葉に耳を傾け、その呼び掛けに応答するという関係を保ち続けてきた者もいるではないか、そのような信仰者に対して、改めて「出来事として…

言葉に聴く

「言葉が語る」とは、聖書に記された言葉に(おいて)聴くことである。それは「教理問答」のように、固定化されたもの(既成概念)として、言葉を聞くのではない。言葉を聞くのではなく、言葉に(おいて)聴くのでなければならない。

存在が存在者によって語られる

存在は存在者なくしては存在しない。存在者も存在なくしては存在できない。言葉とは存在と存在者との関係そのものである。「言葉が語る」とは、存在が存在者によって語られることである。存在が先でも存在者が先でもない。小田垣の言う「存在論」とはそうい…

好い加減にせよ

言葉の本来性が損なわれれば非本来的な言葉が蔓延するのは当然である。今日私たちが使う言葉の多くは方法論的なものばかりである。科学が技術にばかり加担してその本来性を喪失しているのがよい例である。神学も神を対象的に固定化し、それを「神が語る」と…

存在と存在者

言葉は存在と存在者との関係によって生まれる。それは「花がある」というように表わされる。「ハナ」と言うだけではまだ素材にすぎない。「ある」によって、ハナは存在を得ることができるのである。だが「ある」(存在)も、それ自体として在るのではない。…