ケーリュグマの無効

小田垣は史的イエスの探究のみではケーリュグマを超えることはできないと言う。(第5章「解釈学的キリスト論」)だがここにも問題がある。ケーリュグマそのものが批判されていないことである。ケーリュグマを立ててしまえば、それは上と下との二元関係に復帰することになりはしないか。史的イエスの探究とは、ケーリュグマによって規定されている枠を取り払うことであって、ケーリュグマとの関係を更新することではあるまい。「ケーリュグマの中に前提されているイエスの言葉に至る」という意味が、ケーリュグマの無効を意味するのでなければ、小田垣の論理は齟齬を来すのである。