2013-07-01から1ヶ月間の記事一覧

即非の場 2

「即非」とは、A≠A ∴Aである、というものである。「即」と「即非」の違いは難しいが、小田垣の説明では、即非は「非の面が強い分だけ、不可逆に近い」と言う。しかしそれは不可逆性(目下の論脈では他力性)の強調というより、「即非の場」すなわち「自力…

即非の場 1

一般にキリスト教は他力、仏教は自力だと考えられている。ただ仏教でも浄土教は、他力本願という言葉があるように、他力信仰である。この他力と自力について小田垣は、「どちらを採るかというような単純なものではない」と言い、「他力は自力―他力の区別を超…

独善からの脱出

小田垣の批判(不可逆論批判)の根本は、神学において一般的な、対象化された神(偶像神)を仏教的無(無相)によって見直すことにある。無においては可逆も不可逆もない。神を無とみるとき、キリスト教は仏教のような他宗教と通底し合えることはすでにみた…

不可逆即可逆なり!

滝澤の理論を批判するなら、事に理を与えるというような「注釈」は不要である。的確に不可逆即可逆なり!と批判すればよい話である。小田垣が言うように、不可逆論は神の対象化に帰結する。それは有神論の立場であって、無−神論としては成り立たないのである…

括弧つき

まず事があって、それに理を与えるのが神学である。それはどこまでも人間の営みである。小田垣が「可逆性のみの中に不可逆性、神の主権は含まれている」と言うのは(これだって事に理を与えている)、人間を優先した傲慢に聞こえるかもしれないが、そうでは…

言わぬが花

事と理の関係はふつう、事(出来事)があって、それに理(言葉)的説明を与えるというものである。とすれば事に理(言葉)を与えるのはおよそ「学」とつくものすべての宿命であり、神学も例外ではない。とりわけそれが理論ともなれば、明確な主張を含むこと…

それを言ってはおしまいだ

「原事実」が無であるなら、それを第一義的な不可逆の接触などと言い表わすことはおかしい。しかし小田垣はそう考えながらも、自分の信仰として、この不可逆性すなわち神の主権の優越性に同意すると言う。ただしそれを「言表してしまってはおしまいだ」と付…