括弧つき

まず事があって、それに理を与えるのが神学である。それはどこまでも人間の営みである。小田垣が「可逆性のみの中に不可逆性、神の主権は含まれている」と言うのは(これだって事に理を与えている)、人間を優先した傲慢に聞こえるかもしれないが、そうではなく神学が人間の学であるという限定を示している。つまり神学とはどこまでも括弧が付いたものである。これは神学すべてに妥当する。ならば殊更に滝澤の原事実論を「事に理を与える」などと批判するのは余計である。