厳密な区別

言葉が語る、その言葉とは、出来事において語られたイエスの言葉以外にない。だが信仰者の中にはこれまでもイエスの言葉に耳を傾け、その呼び掛けに応答するという関係を保ち続けてきた者もいるではないか、そのような信仰者に対して、改めて「出来事としての解釈学」などと言う必要があるのか、というような反論(疑問)も生じ得よう。しかしその場合、つぎの点が見落とされていないか、よく考えてみなければならない。まず主客構図を前提として解釈していないか。つぎに主客構図の前提として、あるいは結果として、イエスの言葉を「上から」のものとして解釈していないか。この点が厳密に区別されていなければならないのである。