「上から」の残響

小田垣は記している ― 史的イエスとケーリュグマのキリストの関係づけは、言語的にのみありうるのであり、言葉の出来事の中で達成される、と。(第5章「解釈学的キリスト論」)砕いて言えば、「上から」でも「下から」でもない第三の道は、イエスの言葉において聴くことによって可能となる、ということである。だがこの物言いには、ある種の不徹底が感じられないでもない。小田垣は上の引用につづけて記している ― 言葉は、存在の呼び声にわれわれが応答するか否かの決断を要求している、と。どこか「上から」の残響が聞こえる。