一とキリスト

小田垣は「一」なる世界との関連で、それがなおキリスト教と呼び得るかと自問し、つぎのように答えている。「イエスが一人の人間として、身を以って指示しようとしたものを、われわれがたまたま、そして必然的に、イエスとかかわることによって理解し、そして新しく生まれかわることがキリスト教的と言うならば、われわれの立場はキリスト教である以外はない。」(第3章)しかしこれだけでは「一」とキリストとの関係が不明瞭である。