無の正体

小田垣の説明から受ける持って回ったような印象は、たとえばつぎのような文章に見られる。「神や絶対は完全であるから理由を持たない。……しかし理由を持たないということも一つの理由である。したがって本当に理由を持たないことは、理由はないという我々の理由づけをもわれわれが棄てる時にのみ、言い換えれば人間が神の理由を求める自己を空じ、それに伴って神も空ぜられた時に達せられる。神と人間との二元が消滅して『一』が現れるのはその時であろう。……」(第3章)これは絶対無(一)を論じたものである。だがなぜ絶対無が生じるのかという説明を欠いている。(本書のどこにも説明はない)絶対無のさらなる根源を欠いているのである。私はその根源が言葉だと考えている。この根源すなわち核が言葉であり、かつ言葉が無の正体である。


※ 言葉については以前かなり論じたので、ここで改めて論究しない。なお私の神学では言葉が中心にあるので、言葉をめぐる記述は当然多い。主な参照箇所としては 2012/5.20-31/7.14-22/10.24-11.8 といったところ。