2012-01-01から1年間の記事一覧

自由の源泉イエス

歴史の中間報告書を書くとすれば、キリスト教の功罪で罪に当たるものは「人間的自由」に対して壁の役割を果たしてきたことである。だが一方で抵抗する側にとってもキリスト教が有効であったのは、マイノリティーがイエス的なものを担ってきたからである。そ…

歴史に連なるイエス

思想と信仰とは異なるが、史的イエスすなわちイエスの言動の歴史性は「人間的自由を求める闘い」の歴史に連なっている。自由を求めるのはそこに不自由(抑圧)があるからである。自由を抑圧するもの、それは権力である。たしかにイエスは権力と闘っている。…

思想家イエス

キリスト教の歴史はイエス=キリストではなく、イエス∝1/キリスト(反比例)であった。(8/23既述)とすれば、キリスト教の権威低下によって、イエスの価値は相対的に上がることになる。なるほどキリストをマイナスしたイエス論は少なくない。そこではイエ…

反面教師としてのキリスト教

歴史的にみれば、キリスト教は「人間的自由を求める闘い」(8/9-10)の壁となってきた。もちろん人類史が神話(宗教)から科学(合理主義)へと展開してきたとすれば、キリスト教も宗教のひとつとして、歴史における「反面教師」の役割を果たしてきたとも言…

キリスト教の矛盾

キリスト教の歴史はイエス=キリストではなく、イエス∝1/キリスト(反比例)であったところにある。皮肉を込めて言えば、キリスト教は権力として君臨するかあるいは権力に与することで歴史を牽引してきたとも言えよう。だがそれは歴史のイエスの在り方とは…

イエス∝1/キリスト

歴史のイエスはユダヤ教の神殿体制と闘った。どのように闘ったかはともかく、権力側からみればイエスは許し難い存在であった。だから十字架につけられた。このことの歴史性を隠したり弱めたりすることは、キリスト教の神殿化(権力化)を招く。歴史的にみる…

神なるイエス=キリスト

なるほどイエスは子として、神を父と呼ぶ。しかし父なる神は旧約の預言者の前に顕現するようには現れない。もしも旧約のように神が現れるならイエスは預言者ではあってもキリストではない。イエスがキリストであるのは、イエス自身が神だからである。福音書…

信仰者のイエス=キリスト

イエスの言葉が神の言葉である。そう理解し受け容れるのが信仰である。信仰者はイエスの言葉(言動)を神の言葉(言動)として受け取る。そのイエスは「史的イエス」として扱われるような具体的な歴史と状況の中に置かれた存在である。その人がキリスト(神…

イエスの言葉=神の言葉

人間的本質の自己超越化した対象、それが神である。だから神とは「人間的」なものである。そこには当然仲介者が存在する。だがじつは仲介者は仲介者ではない。神の言葉の実体(内容)である。よってイエスの言葉は神の言葉である。と言えば、それは所詮人間…

一体としてのイエス=キリスト

キリストは超歴史(普遍)的存在(実在)である。だがそれは歴史であるところのイエス(固有者)と表裏一体の関係にある。(どちらが表か裏かは問題ではない。)表には裏が、裏には表が必ず付いて回る。表を出せば裏が隠れ、裏を出せば表が隠れると考えるの…

イエス+キリスト−キリスト=ゼロ

ところで「史的イエス」とは、福音書に書かれたイエス=キリストからキリストの要素を外して、「人間イエス」を抽出する試みである。すなわちイエス+キリスト−キリストである。しかし結果はイエスが残るというよりゼロとなると見るのが正しい。もちろん「史…

イエス+キリスト−イエス=ゼロ

ふつうイエス的面(史的イエス)を重視すると、キリストの神性がそれだけ弱まると考えられがちである。そこでキリストの神性を保持するために「史的イエス」が抑えられる。だがこれは間違っている。「史的イエス」を抑えてしまえばキリストの神性も弱まるの…

軽視される史的イエス

イエス=キリストからイエスをマイナスするとキリストが空っぽになってしまう。ところが神学にあってはこの点が重視されてきたとは必ずしも言えない。例えばパウロは「私は…十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と記しているが(…

イエスの言動

イエスはキリストであって「ただの人」ではない。しかしイエスとキリストを結びつけているもの、イエス=キリストにリアリティーを与えているもの、それは福音書に書かれたイエスの言動(行状)である。それは具体的な状況において語られている。イエスの立…

「ただの人」ではないイエス

イエスは歴史の一齣に現れた一個人である。かれが当時の権力体制に逆らったために処刑されたということも、反体制者の処刑とみれば、歴史上くりかえし行われてきたことである。にもかかわらずイエスだけがキリストとなり、後世に甚大な影響を与える存在とな…

史的イエス

イエス=キリストという概念は歴史的背景をもって成立したものである。その背景の一つがユダヤ教伝来のメシア思想であることは述べたが(8/1)、もう一つは福音書に書かれたイエス=キリストの「個人史」である。それは単なる個人史ではないが、ナザレのイエ…

歴史の山脈

「人間的自由を求める闘い」を思いつくままに挙げてみよう。最初はイスラエル人のエジプト脱出である。つぎにキリスト教のユダヤ教からの独立、さらにプロテスタントのカトリックからの独立、フランス革命(教権からの自由)……20世紀ならインドのような被…

人間的自由を求める闘い

ある意味で人類の歴史は、長い年月をかけて「裸の王様」の正体を暴いてきた歴史であると言える。教会権力によるさまざまな圧力に抗して、科学も社会運動もこれと闘った。(宗教改革もその闘いの一環にある)これらの闘いは「人間的自由を求める闘い」と称す…

失われていった「歴史」

もちろん「裸の王様」にもそれとしてのリアリティーはある。事実その後のキリスト教はそのようなリアリティーをイエス=キリストに与えてきた。お金が「信用」によって支えられているように、イエス=キリストも人々の「信仰」によって支えられているのは確…

裸の王様

イエス=キリストが「虚言」か否かということはこの言葉のリアリティーにかかっている。前にお金のリアリティーについて述べたが(5/26)、イエス=キリストのリアリティーを保証しているのは「歴史」である。だが教会の発展にともなって「歴史」は失われて…

フィクションとしてのイエス=キリスト

「イエスはキリストである」という告白は歴史の中から発せられたものである。しかし教義においては、この歴史的事情が捨象され理論が抽象される。教義学では、イエス=キリストは人間でもあり神でもあるという「二性論」(詳しくは検索で)として説明される…

〇は囗である

キリスト教においては、歴史的事情から、仲介者が神(神の子)となった。そのため神学はその説明に腐心してきた。〇を囗と言うような、無理を通さなければならないからである。もちろん言葉においては「〇は囗である」ということは可能である。同様に「イエ…

「神の子」の由来 2

イエスを「神の子」とした理由には「犠牲」という宗教儀礼の影響もある。最大の「犠牲」というべき人身御供にイエスの死は属するが、これに父子関係を絡めたのは(ほかに例があるかもしれないが)ユダヤ教である。「旧約」には、子を「犠牲」として捧げると…

「神の子」の由来 1

キリスト教はユダヤ教伝来のメシア思想によって成立した宗教である。メシアとは(詳しくは検索で)、バビロン捕囚(BC6世紀)後亡国の民となったイスラエル民族が国家再興の悲願を込めて待望した「救世主」のことであり、預言者が抱いた終末的歴史観にその思…

「神の子」という仲介者

イエスは神と人間との間をとりもつ仲介者ではあるが、預言者ではなく(歴史的には預言者の系譜につながるが)、神とは父と子の関係にある。イエスもまた預言者やムハンマドのような仲介者でもよさそうなのに(事実イスラーム教ではイエスは預言者となってい…

普遍と固有

人間的本質の自己超越化した形態が神であり、ゆえに神が人間と関係しているのは当然であり、そこに仲介者の必然的な存在理由がある。これを宗教は普遍と固有の関係で表わしている。ユダヤ教ならヤーウェと預言者たち、イスラーム教ならアッラーとムハンマド…

仲介者としてのイエス=キリスト

言葉において絶対他者として現れる神。そのような神あるいは神々をいただく宗教は多い。ユダヤ教もそのひとつである。イスラーム教もそうである。神というのが言葉による人間的本質の自己超越化した形態であってみれば、最初から神が人間と関係しているのは…

言葉としてのイエス=キリスト

イエス=キリストとはまずは言葉である。といえばそれはキリスト論のひとつ「ロゴス・キリスト論」と同じと言われるかもしれないが、そうではない。ロゴス・キリスト論ではキリストは神の言葉(ロゴス)によって成るとされる。だが神もまた言葉である。言葉…

信仰と思想

イエス=キリストが人間であり神でもあるということをどう理解すればよいのかという問題は「キリスト論論争」として争われた。その内容は省く。(検索に譲る)ここでまず押さえておくべきは、イエスが「ただの人」であればキリスト教という宗教は成り立たず…

父と子

キリスト教はイエスをキリストであると告白する宗教である。すなわちイエスという一個の人間が同時に神であるということである。これをイエス=キリストと称する。もっともイエスには「父なる神」がいて、かれはその息子であるとされる。だから「神の子」と…