2012-01-01から1年間の記事一覧

言葉において顕れる神 5

私(個)あるいは私たち(共同体)の呼びかけによって神は現れる。言葉が神を現前化=顕現化させるのである。受肉という神学的概念もそこに究極するが、これはもっと後で述べよう。とにかく神は言葉において現れる。言葉なしに神と人間との関係は成り立たな…

言葉において顕れる神 4

聖書によれば神とは「在る者」(出エジプト3:14)である。すなわち神はいっさいの存在の根拠(源泉)である。これは神の定義としてひじょうに洗練されたものである。もちろん言葉によって定義(define)されるかぎり、神は限定されている。しかし私たちはそ…

言葉において顕れる神 3

キリスト教の神がユダヤ教の神と同じなら、「父なる神」はヤーウェと同じことになる。だが「旧約」のヤーウェという神名は固有名であるのに対して、「新約」の神(テオス)は普通名詞である。この違いは小さくない。しかし面白いと思うのは、固有名である「…

言葉において顕れる神 2

言葉において顕れる神とはどのような神であるのか? クリスチャンでも神のイメージははっきりしていない。三位一体という難しい話は後回しにするとして、「父なる神」を想像するとき、ひとはどのような神を想像するのだろうか? たとえばミケランジェロが天…

言葉において顕れる神 1

キリスト教における歴史性・社会性についてはいずれまた述べることにして、神信仰の話に戻ろう。言葉において顕れる神(絶対他者)、それを聖書はつぎのように記している。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によ…

預言者たちの系譜

聖書(ユダヤ教聖書=旧約)にみる反省的視点はとくに預言者たちによって担われている。かれらは共同体と神との間を取り持つ者たちである。共同体が神から離反する傾向にあるとき、預言者は神への復帰を説く。神からの離反とは神に対する罪を意味する。共同…

反省の産物としての聖書

聖書編纂の重要な意味は、イスラエル民族(ユダヤ人)が歴史の第一幕全体を振り返って、その悲劇の理由を自分たちが神から離れた「罪」によるものとしたことにある。この反省的視点から聖書(ユダヤ教聖書=旧約)は編纂された。つまり聖書は民族的反省の産…

イスラエルの歴史

イスラエルの歴史(神と民族との交渉史)は出エジプト(紀元前13世紀)に始まり、カナン(パレスチナ)侵入、ダビデ・ソロモン時代の繁栄と衰退、王国分裂とその後の他国支配、そしてバビロン捕囚(紀元前6世紀)をもって第一幕を閉じる。イスラエル民族…

神が介入する歴史

キリスト教は歴史性・社会性を備えた宗教である。しかしこの性格はユダヤ教から受け継いだものである。ユダヤ教においては神はイスラエル民族共同体(社会)を導き、歴史をつくりだしていく者である。だから歴史といっても、ヘロドトスや司馬遷が描くような…

キリスト教の特殊性

信仰とは祈りに生きることである。祈らない信仰、祈りのない宗教はない。しかしそれならば、ほかの宗教にも言えることであって、とくにキリスト教にかぎるものではない。キリスト教が他と異なる理由は、祈り以外にあると言わなければならない。キリスト教の…

祈り

「私」とは他者である。なぜなら「私」とは言葉であるから。まして「神」ならば他者性はもっと明瞭である。祈りはその神に向かってなされる。祈りに形式はない。祈りたいこと、祈らずにはいられないこと、それを神に向かって発するのが祈りである。自分の成…

神との対話

神との対話と言っても、神の声が直に聞こえるわけではない。それを期待するのが信仰なのでもない。神の実在とは竜や麒麟のような架空に造形されたある形(形象)をいうのではない。神は言葉において在ることはすでに確認したとおりである。(5/24)しかし言…

神の言葉によって生きる

向う岸の世界とは信仰を獲得した後の世界のことである。その世界を知るには向う岸に渡ってみなければわからない。神を自我の中に迎え入れ、対話できる環境に身を置いてみなければわからない。これを言葉の問題として言えば、此岸における言葉は記号であり、…

岸に向かって漕ぎだそう

信じたいが信じ難い、信じ難いが信じたい、信と不信との堂々巡り。この往還運動から抜け出すために私という小舟を向う岸に向かって漕ぎだそう! しかし夢遊病者の跳躍のように虚空めがけて跳んだ結果が墜落! なんてことはないか? そんなことを恐れる必要は…

彼岸への跳躍

此岸から彼岸への跳躍といってもこの世からあの世への跳躍を意味するのではない。彼岸とは信仰を得た世界のこと。こちらの岸に立って世界を見るのではなく、向う岸に渡って、向う岸から逆にこの世界を見直してみるのである。別の譬えでいえば、自我という部…

跳躍の決断

パスカルはデカルトのような神の存在証明は行わない。その代わりに神の実在/非在を「賭け」で問う。この賭けは勝てば儲け、負けても損はない。とはいえ負ければやはり虚しさは残るだろう。この空虚感こそ私たちの心理を支配するものである。しかしパスカル…

パスカルの希求

言葉によって呼び出された超越者=神。その神に向かって人間は祈願する。しかし始原にあっては神は個人のものではなく共同体のものだったであろう。共同体のアイデンティティとして確かな根拠を与える者こそ神であった。やがてそれは個人の根拠ともなってゆ…

人は神をどのようにして見出すのか

言葉は人間のものであるが、誰のものでもない。言葉には他者性が具わっている。(5/28・29)それが自我(意識)の自己超越をもたらす要因であろう。神はその他者の最たる者(絶対他者)である。では人はその神をどのようにして見出すのか? 神が人間的本質の…

超人と神

超人もキリスト者も、ともに自己超越を契機とするが、超人は自己に頼み、キリスト者は神に頼む。もちろんフォイエルバッハのように、神に人間的本質をみるなら、神も自己に回収されるであろう。イエス=キリストが神と人との仲介者であるのは、たしかにそう…

ニーチェの超人

ニーチェが言う「神は死んだ」とは、西洋キリスト教の総体的批判の言葉である。そこに西洋文化の欺瞞・偽善の体質を見たのだ。その点はフォイエルバッハの認識と共通している。ニーチェは神的実在を否定したが、同時にそれに代わる価値を模索した。そして神…

神は死んだのか?

神は実在する。だがそれだけでは私に確信を与えない。なるほど旧約聖書の世界なら、神と人間との交通が見えるように語られていて、人々は神の声を、想像ではなく、実際にも聴いたように思われる。だが私たちにはもはや聴こえない。神は沈黙する。あるいは「…

神の実在 2

たしかに神の実在とは言葉によって呼び出された人間的本質である。しかし神を人間が創り出した幻想にすぎないとみるだけなら(誤まりではないが)、それで終わりである。それでは神的なものと共にあった人類の歴史・文化を説明することはできない。人類の歴…

知恵と感動の源泉としての神

人間の思惟において最高の理念がイデアであるとすれば、その人格的至高者が神である。ユダヤ教はそこに源泉を置いた。人類史上あるいは宗教史上有力な宗教のひとつであるキリスト教は、ユダヤ教から借りたその神を自身の神として普遍化した。西洋的にみれば…

言葉が創り出した神

フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で述べているように、神とは人間が創り出したものである。言葉によって形成された自我(意識)は、その言葉によって自己を超え出ていこうとする。自己超出あるいは自己超越である。言葉は人間から出て、人間の外に人…

神の実在 1

実際に在るか無いかも分らない神でありながら(もちろん言葉においては在るが)、これを実在としたユダヤ教において、神は現実に働き歴史を創り出していった。これはちょうど、もともとフィクションでしかないお金が、現実世界を動かしていくことに似ている…

実在する神 

聖書(旧約)には神が「人格」をもって生きいきと描かれている。そこでは神は目に見えるように実在している。ひょっとして、これが書かれた時代、人の目に神は見えたのかもしれない。ともかく、神は人格をもった神としてイスラエルの歴史に介入し、これを支…

実在についての思惟

インド哲学のようなものはともかく、ユダヤ教の聖典である「聖書」には神の実在についての思惟がすでに成立していたことが確認できる。たとえばモーセが神にその名を質すと、神は「わたしはあるという者だ」と答えている。(出エジプト3:14)神観念がこのよ…

ユダヤ教の成立

人類史における一連の宗教的な営みの中にイスラエル民族の宗教運動もあった。この民族宗教の興隆は、今日からみて、人類史上および宗教史上の画期となった。ことにそれを決定づけたのは紀元前6世紀の「聖書」の編纂である。ここにユダヤ教が成立、それ以前…

「実在」への問い

人類の根源に宗教的事象がある。それらは様々な形態をとって世界各地に現われ展開していったことだろう。それらの営みにはすべて「言葉」が働いていたことを押さえておかなければならない。そうした営みの中から神についての思惟がなされるようになっていっ…

言葉と感動2

人類史において宗教的事象(今日宗教学が扱うような事柄)が始原において現れたのは、言葉と感動(驚きと畏怖)とが一体のものであった何よりの証拠である。それは人間が人間であるかぎり、根本的に「人間」を規定するものである。私ははじめに、神を「信じ…