言葉=聖霊=他者

人間が畏敬する聖、あるいは憧憬する美というものは、どこからもたらされるものだろうか。キリスト教で言えば、それは聖霊によってもたらされる。聖霊すなわち言葉である。言葉の無根拠性にもかかわらず(いや、そのゆえに)言葉はそれを用いる人間に対して「他者」として立ち現れる。言葉=聖霊=他者によって、人間は「ない」ものを「ある」ものとして、文化を築いてきたのである。だがそれにしても、言葉が聖なる概念を生み出したのはなぜだろう? そこに必然があったとは思えないが、不思議である。