無理の封じ込め

福音書(聖書)を文学として捉えるのは悪くないとしても、それは信仰の問題ではない。ならば福音書の記述に文句を言わず従うのが「信仰」なのだろうか。だが「信じる」と言っても、処女降誕や復活というフィクションを「事実」と自分に言い聞かせても、そこに無理があるのは当然である。クリスチャンの多くはその無理を封じ込め、挙句に「逐語霊感」などと虚勢を張るから、知性が逃げていくのである。