括弧つき

まず事があって、それに理を与えるのが神学である。それはどこまでも人間の営みである。小田垣が「可逆性のみの中に不可逆性、神の主権は含まれている」と言うのは(これだって事に理を与えている)、人間を優先した傲慢に聞こえるかもしれないが、そうではなく神学が人間の学であるという限定を示している。つまり神学とはどこまでも括弧が付いたものである。これは神学すべてに妥当する。ならば殊更に滝澤の原事実論を「事に理を与える」などと批判するのは余計である。

言わぬが花

事と理の関係はふつう、事(出来事)があって、それに理(言葉)的説明を与えるというものである。とすれば事に理(言葉)を与えるのはおよそ「学」とつくものすべての宿命であり、神学も例外ではない。とりわけそれが理論ともなれば、明確な主張を含むことになる。滝澤の「原事実」も理論である。それを言っちゃーおしまいだと言うなら、小田垣の言にも当てはまることになろう。言わぬが花なら、神学者は沈黙しなければならなくなる。

それを言ってはおしまいだ

「原事実」が無であるなら、それを第一義的な不可逆の接触などと言い表わすことはおかしい。しかし小田垣はそう考えながらも、自分の信仰として、この不可逆性すなわち神の主権の優越性に同意すると言う。ただしそれを「言表してしまってはおしまいだ」と付けくわえている。なぜならそれは「事」に「理」を与えるからであると……

不可逆の接触

「原事実」を神と人間との「第一義の接触」とすれば、これに基づいて現成する本来的な人間実存が「第二義の接触」だという。滝澤はこの二つの接触の関係は不可逆であるとしている。これに対して小田垣は「滝澤の『原事実』は無であるべきである」と言い、無であるはずの「原事実」を神と人間との接触というように分節するのは対象論理的思考ではないかと批判している。

原事実

さて「キリスト教と仏教」に戻ろう。小田垣はここで可逆/不可逆、自力/他力の問題を追究している。まず前者の問題は滝澤克己の「原事実」をめぐる批判として論究されている。「原事実」とは神学的に分節された人間実存の原点を指している。それは「神われらと共にいます」(インマヌエル)という在り方である。私はこれを信仰告白とみるが、滝澤にあっては告白以前に厳然としてある事実、よって「原事実」である。

そこが混同され易い

多様な宗教のそれぞれが絶対なる無(一)に発している。だから絶対的な宗教というものはない。宗教はいずれもその固有の具体性でもって普遍なる絶対無を表現しているのであって、それ自身が絶対であるわけではない。そこが混同され易いのである。自らを普遍と僭称したカトリックなどはその典型である。

宗教の「一」性

私は以前、宗教は一つであると述べた。(2012.11.25)なぜなら宗教の根底にあるのは、いずれも無だからである。だがそれを一つの宗教が代表することはできないとも述べた。(11.26)宗教とは根源的無(絶対無)にそれぞれが言葉を与えることによって、これを具現化したものである。だから宗教が多様なのは当然である。キリスト教は、仏教のみならず、どのような宗教とも通底している。