存在と意識

「在る」ということについて、デカルトは人間の意識(思惟)を基点にした。「われ思う(思考する)ゆえにわれ在り」だ。「象がいる(在る)」という場合でも、それは思惟主体である「われ」が象を対象化した結果、得られる認識である。象が認識の対象でなければ、「ある」とも「ない」とも言えない。その点では神も同じである。もし人間の意識が神を対象化しなければ、神は「ある」も「ない」もない。人間は神を意識において対象化し認識するのである。だがそれにしても対象を存在として認識する意識とは、何者なのか?