新たなキリスト論の展開

ヨハネとイエスの関係をキリストとその告知者という関係ではなく、記述の背後にある子弟の共同関係として捉え直してみれば、そこに両者が共同して闘った政治的・社会的な状況が浮かび上がってくることだろう。それは取りも直さず、新たなイエス像、新たなキ…

恣意的な意味づけ

バプテスマのヨハネがいかに重要な存在であるかということは、福音書すべてがその初めにヨハネを紹介していることからも分かる。ルカにいたってはイエスと並べて出生まで描いている。だがどれもマルコが記した「その方の履物のひもを解く値打もない」という…

マルコによるヨハネ・ユダ像の定着

マルコの独創は特筆に値する。が、そのマルコにして、バプテスマのヨハネはイエスの格下として位置づけられ、彼の処刑もサロメ(ヘロディアの娘とある)の「おねだり」ということで始末されている。そして後半を占める受難物語において、ユダは型どおりの裏…

マルコの偉さ

新約27書の中で執筆年代が最も早いのはパウロの真正書簡だが、マルコもほぼ同時期に書かれている。それにしてもパウロの書簡に較べてさえ、マルコの福音書なる文学形式は独創的である。マタイもルカも、マルコなしにはなかったことを思えば、マルコの偉さ…

浮かび上がる政治性

書くという行為はあるものを表わすと同時にあるものを隠すという行為でもある。福音書はイエスの政治性を隠している。だが隠しているということは、その本体は潜在しているということである。そう思って読んでみると、随所に隠された政治性が浮かび上がって…

マルコの反発

マルコ福音書はエルサレム教団に対する批判が強いと言われる。その理由は、ヘブル勢力と新参のギリシア勢力(ヘレニスト)の派閥争いということがあるかもしれないが、主にイエスをキリスト化する教団のケリュグマ主義、あるいはイエスの死を贖罪死に特化し…

エルサレム教団の態度

マルコ福音書が書かれる以前(70年以前)、まずペテロらのエルサレム教団はどうだったのか。イエスがヨハネの衣鉢を継いで体制と闘ったように、エルサレム教団がイエスの革命的精神を継承してユダヤの神殿体制と闘ったとしたら、同じように弾圧されてしまっ…

消去か隠蔽か

福音書はイエスを宗教的メシアとして死なせ、ユダを革命家イエスの身代わりとして葬った。二人の死は真逆ながら、いやそれゆえに一対のものである。だがなぜそのようにして革命家イエスの跡を消去あるいは隠蔽したのか。教団に政治と宗教とを分ける積極的な…

イエスの欠片

ユダとはイエスの政治的ラディカリズムを負ったキャラクターである。したがってユダを探れば、イエスの政治性に辿り着くことができよう。だが福音書はそれを消去もしくは隠蔽している。いやイエスの政治性を消去・隠蔽するためにユダが造形されたと言ったほ…

ユダ像の貧弱な理由

ユダの人物像が造形的に貧弱であるのは二つ理由がある。一つは架空性である。ユダは内通者の密告という事実から仮構されたキャラクターであろう。(モデルはいたかも知れないが)だからその役割さえ与えられれば、人物像まで造形するには及ばないのである。…

彫りの浅い人物像

内通者が本当に「弟子のユダ」であったかどうかは不明だが、福音書はかれにその役を負わせている。しかしかれは逮捕劇の重要人物でありながら、それ以外には哀れな末路のほかに何も述べられていない。その意味では人物像の彫りが浅いのである。これが小説な…

伏せられた動機

内通者による密告、この事実を素材として、福音書はユダというキャラクターにその役割を負わせた。だがそれだけだろうか? 福音書が記すユダの動機は、じつに貧弱なものである。お金のため(マタイ)とか、サタンが入った(ルカ)とか。つまり重要なことが伏…

内通者

イエスの捕縛が内通者によって果たされたというのは、おそらく史実であろう。なぜなら特に内通者を設定しなくても、イエス逮捕の方法はほかにもあり得たであろうからである。それに身内から裏切り者が出たということは、イエスにとっても褒められたことでは…

イエスの分身

福音書のシナリオにおいて、ユダは「裏切り者」という配役である。主人公イエスが最高のキャラクターとすれば、ユダは最低のキャラクターとして配されている。しかしこうした配役設定は、じつは一人の人格を二つに分けるという分身型設定の常套手法である。…

ユダ・スパイ説

福音書はユダをきわめて特殊に定式化しているので、その実像は不明である。福音書の記述から、ユダは権力が差し向けたスパイではなかったか、ということも一応考えられる。公安スパイのような存在として「危険集団」の中に侵入していたということは十分あり…

指定テロ集団

福音書の記述に乏しいイエスの「神の国」運動の政治性。しかしその一端を垣間見ることができないわけではない。たとえば弟子のなかに熱心党に属する者(シモン)がいる。ユダも関係していただろう。これらの人物を含むイエスの集団が、権力からみれば危険視…

消去された「歴史」

イエスの「神の国」運動は当時の政治的状況と無関係ではありえなかった。イエスはその状況下で処刑されたことは厳然とした事実である。福音書は、それを希薄化あるいは無力化している。しかし、それがキリスト教の公式的な見解になっていったのである。だが…

衣鉢を継ぐ

イエスがヨハネ教団を去った理由として、両者の考え方の違いが指摘されたりする。それも然りながら、大きな契機はヨハネの処刑であろう。イエスの死がまさにそうであったように、ヨハネの死が弟子イエスに大きな衝撃を与えたことは想像するに難くない。イエ…

ヨハネ像の定着

サロメの物語にも伝承経路はあるだろう。この手の話は人口に膾炙しやすいものである。マルコはヨハネを「先駆者」の物語として組み立て、その中にこの話を織り込んだ。以来ヨハネはイエスの先駆者、言い換えればイエスの「格下」として位置づけられたのであ…

教団弾圧

サロメの物語はつくり話だとしても、ヨハネが断首されたことは事実だろう。なぜヨハネは断首されたのか。詳しいことは検索に回して、簡単に言えば、ヨハネ教団のラディカリズムがローマの傀儡ヘロデのユダヤ統治にとって危険だったということであろう。政治…

失礼千万な話

ヨハネの断首にまつわるサロメの物語はつくり話である。しかも「偉人」の死としては情けない話である。「小娘」の我がままによって命果てるとは!それにこの話は、その残忍性も然りながら、それ以上に妖気のようなものを漂わせており、いかにも「物語的」で…

イエスの先生

福音書では、バプテスマのヨハネはイエスの先駆者、といえば体裁はよいが、実質的には「露払い」として格下げされている。(あの独特の風体もエリアに似せた粉飾にすぎず、実際の姿は不明である。)しかし実際のところ、イエスはバプテスマのヨハネの教団に…

ヨハネとユダ

革命家イエスの言動の内実を問う前に、福音書の人物構成からバプテスマのヨハネとイスカリオテのユダの位置づけを考えてみよう。私はこの両者がイエスの存在と深く関わっているとみる。ことにユダは、あのファウストの分身メフィストのような存在として、人…

相当の言動

史的イエスにおける種々の属性のうち、とくに重要なものとして「革命家」という属性を取り上げている。それは、イエスがキリストと告白される契機となった十字架刑を、贖罪教義として祭り上げる前に、神殿体制との衝突の結果として捉えてみることである。一…

史的イエス=信仰的イエス

ここまで述べてきたことを整理すると、非神話化的な解釈によって、イエス=キリストは処女降誕や数々の奇跡といった道具立てなしに成り立つこと(12/22)、非神話化による解釈は、聖書解釈の深化に役立つのであって、信仰の退化を招くようなことはないこと(…

同じ穴のムジナ

イエス・イメージを見直すのに、イエスの顔のほかに、聖書の言葉づかいということも考えられる。そもそも福音書を書くために使われた古い伝承にはイエスの神格化はなかった言われる。それもそうだが、私たちが読む福音書では敬語が用いられているので、ます…

イエスの顔

イエスの「神の国」運動を考える前に、少しだけ道草して、私たちのイエス・イメージを見直してみることもよいだろう。イエスの顔といえば、ふつう左のような顔をイメージする。しかし2001年イギリスのBBCが公開したイエスの顔は右である。大工で鍛え…

Revolution

イエスの革命家という史的属性はどのようなものであったのか。それは「神の国」運動の内実を問うことであろう。ジョン・レノンのRevolutionにつぎのような歌詞がある。「あんたは体制変革と言うが、まずあんたの思考(思想)を変えたらどうだ。」つまり外面…

権力に楯突く者

歴史のイエスは革命家である。もしかれが誰にでも口に出せるような「神の国」を宣伝していただけなら、権力によって抹殺されることはなかったはずである。イエスは、政治的・経済的・宗教的いずれにおいても権力を独占していたユダヤの神殿体制に挑んだに違…

イエスの史的属性

イエスは革命家でも教師でも医者でもない。(そのような人物なら歴史上大勢いる)だが歴史のイエスは革命家・教師・医者であった。イエスがキリストであるなら、そのような属性などどうでもよいのか?いや、そうではない。イエスの史的属性そのものがイエス…