無-神論

小田垣は神理解として三点挙げている。(第6章「解釈学的神学と神」) 1 神はイエスの言葉を通しての神である。 2 神は存在者としては(対象的に)存在しない。3 神は無である。ふつう言われている無神論はただの唯物論である。だが無-神論は、あくまでも…

神なき思考

これまで見てきたように、小田垣にあって、神は対象的な存在ではない。そのような神は偶像にすぎない。では何をして神と呼ぶか。第6章(解釈学的神学と神)はこの問題が扱われている。その中で彼は、ハイデッガーに拠りながら、「神なき思考の方が、神をま…

ケーリュグマとは何か

史的イエスとケーリュグマのキリストの統一、それが解釈学的キリスト論である、と小田垣は言う。(第5章「解釈学的キリスト論」)だがこうも言う ― ケーリュグマとは何か、それはイエスの言葉である、と。さらにイエスの言葉を特殊な対象として客観的に主張…

イエス=キリストの意味

史的イエスとケーリュグマとの関係とは要するにイエスとキリストとの関係である。両者は矛盾対立する。そこに上と下との矛盾対立が生まれる理由がある。だが上でも下でもない第三の道においては、イエスかキリストかという対立はもはやない。イエスがキリス…

ケーリュグマの無効

小田垣は史的イエスの探究のみではケーリュグマを超えることはできないと言う。(第5章「解釈学的キリスト論」)だがここにも問題がある。ケーリュグマそのものが批判されていないことである。ケーリュグマを立ててしまえば、それは上と下との二元関係に復…

存在の呼び声に気づく

小田垣は記している ― 言葉は、存在の呼び声にわれわれが応答するか否かの決断を要求している、と。小田垣が「神」ではなく「存在」と記したのは正確である。だが「決断」は不正確である。神ではなく、存在の呼び声に応答するのに決断は要らないからである。…

「上から」の残響

小田垣は記している ― 史的イエスとケーリュグマのキリストの関係づけは、言語的にのみありうるのであり、言葉の出来事の中で達成される、と。(第5章「解釈学的キリスト論」)砕いて言えば、「上から」でも「下から」でもない第三の道は、イエスの言葉にお…

ケーリュグマを超えようとする試み

小田垣は「新しい史的イエスの探求は、ケーリュグマを超えようとする試みであった」(第5章「解釈学的キリスト論」)と記している。それは、教団的に公式化された教義であるケーリュグマの枠を取り外し、イエスの本来的な言葉に直接到達しようとすることで…

非神話化の意味

「上から」でも「下から」でもない第三の道においてイエスの言葉に聴く― それは瞑想する、というようなことではない。まず「上から」ではないということは、イエスの言葉を神の言葉としては聞かないということである。もちろん私が手にしている聖書にはすで…

第三の道

そもそも「上から」と「下から」の解釈の違いが生じたのは、歴史的なものであった。初めは「上から」であったものが、近代になって「下から」になり、さらに「上から」か「下から」かという競合状態になったのである。新しい神学が歩むべき道は、「上から」…

自己偶像化

キリストを主客構図のなかで対象化すれば、そのキリストは偶像(アイドル)である。偶像崇拝とは、自己が無いようで、実は強固に自己を確保する手段である。たとえば権力は必ず偶像をもって民衆支配の手段とする。その最たるものは自己を偶像化することであ…

偶像崇拝の起源

信仰者はひょっとしてこう思うかもしれない ― 神は絶対者なのだから「上から」が当然である。それが受け容れられなければ信仰ではない。これは一面の真理を含んでいる。信仰には神を受け容れるということ(気づき)が伴うからである。しかしそこではキリスト…

厳密な区別

言葉が語る、その言葉とは、出来事において語られたイエスの言葉以外にない。だが信仰者の中にはこれまでもイエスの言葉に耳を傾け、その呼び掛けに応答するという関係を保ち続けてきた者もいるではないか、そのような信仰者に対して、改めて「出来事として…

言葉に聴く

「言葉が語る」とは、聖書に記された言葉に(おいて)聴くことである。それは「教理問答」のように、固定化されたもの(既成概念)として、言葉を聞くのではない。言葉を聞くのではなく、言葉に(おいて)聴くのでなければならない。

存在が存在者によって語られる

存在は存在者なくしては存在しない。存在者も存在なくしては存在できない。言葉とは存在と存在者との関係そのものである。「言葉が語る」とは、存在が存在者によって語られることである。存在が先でも存在者が先でもない。小田垣の言う「存在論」とはそうい…

好い加減にせよ

言葉の本来性が損なわれれば非本来的な言葉が蔓延するのは当然である。今日私たちが使う言葉の多くは方法論的なものばかりである。科学が技術にばかり加担してその本来性を喪失しているのがよい例である。神学も神を対象的に固定化し、それを「神が語る」と…

存在と存在者

言葉は存在と存在者との関係によって生まれる。それは「花がある」というように表わされる。「ハナ」と言うだけではまだ素材にすぎない。「ある」によって、ハナは存在を得ることができるのである。だが「ある」(存在)も、それ自体として在るのではない。…

方法論と存在論

「言葉が語る」ということは、一見「上から下へ」に見える。だとすれば「上から下へ」の神学とどう異なるのだろうか。小田垣はそれを方法論と存在論の違いとして説明している。方法論とは、一種の形式主義である。神の言葉を対象的に固定化して騙る。そのよ…

言葉が語る

人間にとって人や物が存在することは、言葉なしにはにはありえない。花も鳥も言葉である。だがhaとnaを組み合わせて、なぜ花という概念が生まれたのか、それを知ることは出来ない。言葉の不思議である。私が言葉を語るのではなく、言葉が私を語るのである。

言葉は存在の家である

言葉のない世界には花も鳥も存在しない。花は自分を花とは思わないし、鳥も自分を鳥とは思わない。花や鳥が存在するには言葉が必要だ。それをハイデッガーは「言葉は存在の家である」と言った。

出来事に還る

「下から上」か「上から下」かという袋小路に入ってしまった神学からの解放は、「出来事」に還ることである。その手掛かりとして小田垣は、まずハイデッガーの言う「言葉」の意義を取り上げている。

「下から上」か「上から下」か

小田垣は「下から上へ」の解釈学について、それが人間の側から出発していることにおいて、神学との相克は避けられないと言う。一方「上から下へ」の解釈学については、神(上から)の啓示と言えども、人間の関わりなしには成り立たず、しかもその関わりは「…

「下から上」と「上から下」と

第2部は第4章「 解釈学と神学 」から始まる。中身は「下から上への解釈学」、「上から下への解釈学」、「出来事としての解釈学」の三つから成る。「下から上へ」とは、人間と神との二元構図(主客構図)における「人間の側から」を意味し、「上から下へ」…

非閉鎖的キリスト論の試み

新しい史的イエスの探求はブルトマン批判を軸に展開した。小田垣はその批判者たちの論点を緻密な考察によって逐一要約・吟味していく。その批判の中心にあるのが「史的イエスと信仰のイエスの間の緊張関係」であるが、批判者たちの試みはいずれも成功してい…

新しい史的イエスの探求

近代神学・弁証法神学の閉鎖性対して非閉鎖的な(開放的とは言われない)神学は、当然史的イエスをめぐるものでなければならない。そこに主観−客観構図を超えるイエス=キリストの出来事性があるからである。第3章の副題が「新しい史的イエスの探求」とある…

弁証法神学批判の要点

弁証法神学の代表者バルト、ティリッヒ、ブルトマン、三者に対する小田垣の批判の要点をまとめておこう。 1 信仰的キリストの偏重による史的イエスの切り捨て。これはイエス=キリストという出来事性の理解における重大な欠落を意味する。 2 人間と神の二…

ブルトマン批判

ブルトマンについて小田垣は、「キリスト論におけるイエスの軽視とキリストへの集中がブルトマン神学の特徴」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)だと指摘する。要するに、ブルトマンの非神話化の方向は、ケーリュグのキリストすなわち信仰的キリストに傾…

ティリッヒ批判

ティリッヒは「信仰上の疑いを復権させた」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)として評価するものの、かれが提唱した「新存在」なるキリストは、バルトと同様に、ナザレのイエスに向き合うものではない。したがって「ティリッヒには地上のイエスに対する…

バルト批判

小田垣の観点から見たバルト批判の根本は、結局「史的批判的研究の余地は全くない」(第1部第2章「弁証法神学の閉鎖性」)という言葉に尽きる。つまりバルトもナザレのイエスを見ていない。その点で、かれの神学には歴史性が欠如している。「史的イエスへの…

弁証法神学

小田垣が閉鎖的キリスト論として立てたもうひとつは弁証法神学である。ここにはバルト、ティリッヒ、ブルトマンといった立役者が並んでいる。神学史上のかれらの意義(功績)は、ともに近代神学の人間中心主義を批判して、神の主権を復活させたところにある。